いのちを守る共同をいま 福島・浪江町 馬場 有(たもつ)町長 “奪われた権利を取り戻したい” ―原発をなくす全国連絡会総会講演から
福島第一原発事故を受け、今も全町避難を強いられている福島県浪江町。馬場有町長が一月二七日、東京都内で開かれた原発をなくす全国連絡会総会で講演しました。(丸山聡子記者)
発災から一〇〇〇日を超えました。私たちは基本的人権を奪われています。憲法一三条は全ての国民に幸福追求権を保障しています。しかし私たちには、自由に何かをする権利すらありません。
憲法二五条がうたう健康に生活する権利も侵害されたままです。津波で亡くなった町民は一八二人。その後の震災関連死は三一五人(一月六日現在)です。三 日に一人亡くなっている。首長として本当に悲しいです。仮設や借り上げ住宅での避難生活は孤立感を深めます。二九条にある財産権もありません。先祖代々築 いてきた土地や生業を全て取り上げられました。
奪われた私たちの権利を取り戻したいのです。
テレビで避難指示知る
浪江町は、海と川、山に恵まれた田舎町でした。
三月一一日の午後二時四六分、震度六強の地震が発生、三時三三分には津波が到達しました。四時三六分に原子炉の非常用冷却装置注水不能との通報がありま した。実はその三〇~四〇分前に全電源喪失になっていたのですが、東電からの通報はありませんでした。浪江町は原発の立地自治体ではなく、隣町です。東電 と結んだ通報連絡協定には通報義務があるのに、双葉町と大熊町には通報し、浪江町にはしなかった。
テレビ報道で避難指示を知り、翌一二日には町の判断で避難しました。その時に町民は被ばくしました。
震災当時の町民は二万一四三四人。県内に約一万四五〇〇人、県外に約六五〇〇人が避難しています。まとまって住める復興住宅の用地の確保が困難です。
浪江の宝を子どもたちに
町としてどのように復興に向き合っていけばいいのか。一〇三人の公募委員に、復興ビジョン を作ってもらいました。途中で「もう帰れない。無駄だ」と作業が中断しました。ある委員の提案で、これから町を担う一七〇〇人の小中学生に作文を書いても らうことにしました。「大きくなったら浪江に帰り、復興のために働きたい」と書いてありました。読んだ委員は皆泣きました。子どもたちの思いに応えよう、 大人ががんばろうと、昨年ビジョンをまとめました。帰る、帰らない、ではなく、一人ひとりの暮らしと命を第一に、ふるさとの風景と浪江の宝を子どもたちに 必ずつなごう、と掲げています。
そのためにはまず暮らしの再建です。放射線管理手帳や個人線量計の配布、内部被ばく検査や甲状腺検査等を行っています。医療や福祉の整備も不可欠です。
何より働く場の確保です。私たちは国の避難指示で避難しました。国が責任を持って工場や病院などを作り、働く場を提供するのが当然だと考えています。
私たちは、原発ADR(裁判外紛争解決手続き)に申し立てをしています。東電に求めるのは、住民への真摯な謝罪、二〇一一年三月一一日以前に戻すこと (東電の全額負担で除染を)、精神的損害への賠償です。わずか三週間で、全国に散っている町民の七割から同意書が集まりました。被災者の立場に立たない東 電に、住民の怒りは爆発しているのです。
住民同士の絆を結ぶには
町職員の退職が相次いでいます。三〇代のある職員は、甲状腺検査で嚢胞が大きいことが判明し、退職を決めました。「将来、町はあるのか」「今の仕事に意味があるのか」と苦悩しています。精神面のフォローが必要です。
厳しい状況ですが、ライブカメラを町内に四〇台設置し、インターネットで町の様子を見られるようにしています。「しゃべり場」やスポーツ大会も行ってい ます。全国の避難先から集まるのですから、おしゃべりで持ちきりです。
一月に避難先で三回目の成人式を開きました。新成人二四〇人のうち、参加は二〇四人でした。やはり、浪江が懐かしいのです。住民の絆を結び、浪江のことを大事にしていきたい。
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東京電力は、事故が起きたときも汚染水の問題でも、ウソの説明を繰り返しています。こんな状況で再稼働なんてとんでもない。まずは原因究明と検証が必要です。そして、危険な原発はやめて自然エネルギーに転換しましょう。
(民医連新聞 第1567号 2014年3月3日)