みんいれん60周年<岡山> 社会保障の原点ここにあり 朝日訴訟からほっとスペース25へ
創立六〇周年シリーズ。今回は憲法二五条の生存権を問うた「朝日訴訟」発祥の地から。岡山民医連は原告の朝日茂さんと共に、社会 保障運動の歴史に残る裁判をたたかいました。ほかにも森永ヒ素ミルク事件、大気汚染訴訟など、人権を守るたたかいは多数。その精神は四年前にできた「ほっ とスペース25」(倉敷市)へ。生活保護法改悪など生存権を揺るがす時代に、大切にしたい実践です。(新井健治記者)
ほっとスペース25は、水島協同病院(倉敷医療生協)近くにあるホームレスなど生活困窮者 向け支援施設です。地域は瀬戸内海に面した工業地帯。三菱自動車水島工場が一四〇〇人をリストラした翌年の二〇〇九年二月、「住まいを失った人を支援しよ う」と、法人と同労組が作りました。日比谷に年越し派遣村ができたころです。
名称には住居を失った人が安心できる居場所をめざすとともに、憲法二五条を守る決意を込めました。緊急一時宿泊所として近隣にアパート四部屋を確保、食 事も提供します。利用者は二週間の入居期間中に仕事と住居を探します。宿泊所を住所に生活保護申請も。
水島協同病院の元事務長で、同スペース相談員の鹿田洋美さんは「凍死者を出さないための一時的な施設のはずでしたが、いっこうに利用は減りません」と言 います。開設から四年で五五二人が相談、二八四人が宿泊所を使いました。
相談者は派遣切り、ホームレス、DV被害者、片親家庭、精神障害者など。最近は元受刑者の利用も。「空腹のあまり万引きを繰り返し、収容される人が多い」と鹿田さん。
「困窮はあなたの責任でない」
藤田隆さん(65)は、ここで救われた一人です。造船関係の労働者でしたが、職も住まいも 失い三年前に相談。就業当時は低収入だったため無年金でした。いまは生活保護を受けてアパート暮らしです。「一玉一〇円のうどんなどで節約しても生活はぎ りぎり。生活保護基準が下げられ消費税が上がったら、ここで首を吊るわ。冗談やけどな」と笑います。
元利用者は「OB」や「卒業生」と呼ばれます。一人暮らしで孤立している人も多く、バーベキューなどほっとスペース主催の企画に参加、悩みがあると訪れ ます。「寂しい時に来る。皆に大事にされて、落ち着ける」と藤田さん。
相談員の金平学さん自身もOBです。液晶パネルの工場を四年前に解雇されました。「最初は派遣だから仕方ないと思っていたが、今は非正規という働かせ方 が間違いだと気づいた。助けを求めてここに来た人にはまず、『あなたの責任ではない』と言います」。
再就職したOBの多くは、生活保護基準並みの賃金です。行政が就労指導を強め、福島の除染作業を紹介された人も。「解決には社会のあり方を変えるしかない」と金平さんは強調します。
夜回りに参加する若手職員
ほっとスペースでは毎月二回、路上生活者支援の夜回りを行っています。五月一七日はちょう ど一〇〇回目。法人のSWや労組職員が輪番で参加します。健寿協同病院SWの小野未有貴さん(25)は、参加して一年あまり。「最初はホームレスが現実に いるんだと驚いた。非正規雇用で生活の苦しい友人は多く、根底で問題がつながっていると感じます」。
大学までは教科書の年表の一つでしかなかった朝日訴訟が、入職して身近に。「生保で楽をしている」との偏見には「生活保護基準が下がったら、みんなの生 活が困るんよ」と言えます。「民医連に入り、おかしいと感じたことは、声に出すことが大事と分かった。運動で社会は変えられる」。
訴訟を支援した医師は
岡山民医連は一九五二年開設の岡山大衆診療所が出発点。その所長や岡山協立病院院長、岡山民医連会長を務めた水落理(みずおちおさむ)医師(88)は、民医連の医療支援団として朝日訴訟をささえました。
一九六四年に原告の朝日茂さんの容態が悪化。訴訟を引き継ぐため、養子縁組の手続きに水落医師も同席しました。「書類に拇印を押した朝日さんは紙を握り しめて離さない。『朝日さん、もういいんだよ』と言いながら、指を一本一本ほどいた。『後は頼むぞ』と言いたかったのだと思います」。
朝日さんの遺体解剖にも関わりました。結核菌はなく非定型抗酸菌が検出されました。「腸に一〇個以上も穴が開いており、死因は腹膜炎でした。裁判で国家 権力と対峙したストレス以外に考えられない。生きる権利を求め、たたかい抜いた壮絶な最期だった」。
裁判では民医連医師だけでなく、二〇代の栄養士も証言しました。「社会保障は国民の権利であり、運動で勝ち取るものだと歴史に刻んだのが朝日訴訟」と水 落さん。「社会保障が次々と切り崩される今、この訴訟を学んでたたかいたい」と訴えます。
(民医連新聞 第1550号 2013年6月17日)