みんいれん60周年 <東京> 困難な人たちとともに下町で生きる 無低診にとりくむ大田病院
民医連は、「いのちの平等」を綱領にかかげ、貧困と格差の広がりの中で、医療にかかれない人たちの命と健康を守ることに全力を挙げています。終戦直後に下町で誕生した、大田病院のとりくみに、そのひとつの姿を見ました。
(丸山聡子記者)
最寄り駅から病院に向かう途中、「海苔」の看板を何件も目にします。「海苔から工場の街へ変わった地域なんですよ」と話すのは、田村直院長。漁業が中心の街は、羽田空港の建設、埋め立てで海から遠ざかり、大小の工場が建ち並ぶようになりました。
大田病院の前身、日本教具診療所は一九四七年に誕生。労働者の診療所として出発し、地域の人も診るようになり、二年後に大田診療所となりました。
喧嘩でけがした人が運びこまれたり、手術費用が捻出できない家庭の分納に応じたり…。「小さいが親切」と、なくてはならない診療所となり、住民の「入院施設もほしい」の声に押され、病院化しました。
高度経済成長に沸いた地域も、バブル崩壊で大工場が移転し、町工場は九〇年代以降半減。不景気から浮上できないでいます。
お金がないときは大田病院
「この地域には抜け出せない貧困がある」と話すのは、SWの今野真貴子さん。何世代にもわたって貧困で、正規の仕事に就けたことがなく、将来の見通しが持てない患者さんが多いと言います。
同院では、入院で約二〇%、外来でも常に十数%が生活保護受給者です。地域では「困ったときは大田病院」という口コミが広がり「病気の友人を診てほしい」と、飛び込んでくる人も。
出山広之さんも、どん底で同院に命を救われた一人。大手鉄鋼の下請け会社で働いていましたが、心筋梗塞になったことがきっかけで解雇。寮からも追い出されました。
病気と失業、住居も失ったうえ、「親の面倒すら見られない自分」に失望し、命を絶とうと青木ヶ原樹海へ。二週間さまよっても死にきれず、警察に保護さ れ、東京で多重債務の相談を行う「太陽の会」を紹介されました。東京に着いたものの、立てないほど衰弱していました。
救急車が呼ばれましたが搬送先が見つかりません。救急隊員の会話から「ホームレス」の受け入れに病院が難色を示していると分かりました。ところが大田病 院はすぐ受け入れました。「こんな自分を受け入れてくれるんだと、ボロボロ泣きました」。
入院中に生活保護を開始し、今はアパートで一人暮らしです。「主治医が『街頭相談会もしているんだ。力になれることがあったら言って』と声をかけてくれ たり、職員同士が対等平等でいい」と出山さん。別の病院に入院したときには、生活保護受給者のベッドは、多床室で廊下側が常。「差額ベッドがないのもい い。差別されないから」と言います。
無低診で 「救える」
同院は二〇〇九年、無料低額診療事業を開始しました。同院の医療圏である品川・大田(人口約一〇〇万人)で無低診を行っていた医療機関はゼロ。「お金がなくて“患者になれない”人たちが救急で運ばれてくる。無低診をやっていれば救えると考えた」と田村院長。
「無低診の役割は終わった」と門前払いだった東京都も、粘り強い交渉と同院の街頭健康相談会を視察し、申請を受け付けました。
開始後、無低診を利用した患者は一〇五人。SWの今野さんは「国保や無保険の人が大半ですが、最近は健保で無低診を使う人が目立ちます」と。病気やけが で休職しても、傷病手当が低いためです。「基本給が少ないので、その六割の傷病手当が月額八~九万円ということも。貯蓄がなければ生活費や医療費はまかな えません」。
「特別診療券」からも、実感したことが。これは無低診を行う医療機関に東京都が義務づけている診療券で、福祉事務所などで、医療の問題で困っている人に 発行します。これを持って受診すれば、一人一回、無低診を行っている医療機関に無料でかかれます。
今野さんは、「特別診療券で受診する人は、孤独で保険証も仕事もなく、私たちとつながりもないのが特徴。困難な人を診てきたつもりで、届いていなかった と痛感します」と。働いた経験がなく、家族や友人もいない三〇代男性、失業し「医療費を払えない」と涙を流す五〇代男性…。底なしの貧困の広がりを実感す る毎日です。
無低診利用のために出してもらう給与明細からも、社会のありようが透けて見えます。「夜勤手当が一回一〇〇円、という人もいました。無低診を通じ、雇用 の現実がわかってきました」と今野さん。解決策が見つからない相談に苦労することもしばしばですが、「経済苦から入院を拒否してきた人が、無低診で安心し て入院するように。その間に解決策を考えられます。大田病院がセーフティーネットの役割を発揮していると実感できます」。今野さんの先輩で同院SWだった 竹内ゆき子さんも「無低診は、命の平等をうたった民医連綱領の実践そのもの」と。
「俺たちの病院」
「『大田病院は俺の病院』と言ってくれる患者さんが何人もいらっしゃる」と田村院長は顔をほころばせます。
それを実感したのが二年前の病院建て替えのとき。鉄鋼の高騰でMRIの設置を断念しかけましたが、地域の人たちが募金を始めました。法人の院外理事の池 山鉄夫さんは、「地域の人は何かしら大田病院の世話になっている。私の祖父も両親も、最期を看取ってもらった。“俺たちの病院を守ろう”という気があ る」。一億円が集まり、MRIは実現しました。
田村院長は「病気以外の困難を抱える人がたくさんいる。病気を診たら終わりでなく、一人でも多くの人が本来の生活を取り戻せるよう努力したい」と語りま した。
(民医連新聞 第1546号 2013年4月15日)