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民医連新聞

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私の3.11 (10)岡山 植木 綾さん 原発から23キロで医療支援

 岡山協立病院の言語聴覚士(ST)です。日本ST協会の要請に応え、昨年五月から三カ月間、福島県南相馬市立総合病院に支援に行きました。
 病院は福島第一原発から北方二三キロ地点に位置し、震災前は病床数二三〇の中核病院でした。震災後の職員不足は深刻でしたが、全国の支援を受けて通常の 医療や市民の被ばく健診を行っていました。STは鹿児島、千葉、栃木からの出向者が、数カ月ずつバトンをつなぎました。
 支援初日に原発から二〇キロ圏内の小高地区を案内されました。泥をかぶり倒壊した家屋、津波でかぶった海水が引かない水田、ガードレールには自動車が乗 り上げていました。道路脇のがれきや自動車に、御遺体が発見されたことを示す白い布を結んだ竹竿がささっていました。
 病院のST室には、震災前日で記録が途切れたカルテや教材が何冊も残っていました。傷跡の生々しさに圧倒され、当初は患者さんから震災や原発事故につい て伺うことを躊躇しました。しかし、生活史を振り返ることはリハビリテーションにとって避けて通れないと思い、できるだけその方の言葉で語ってもらうよう にしました。震災の記憶は認知症の方でも鮮明で「横浜に逃げた。爆弾が落ちたから」と表現した人もいました。
 STの対象は急性期の摂食嚥下、コミュニケーション障害、高次脳機能障害などでしたが、地域に回復期リハ病棟を持つ病院がないこともあり、急性期病院か らいきなり在宅復帰する場合のゴール設定に悩みました。若い世代が避難して高齢者が残っている地域の医療と介護のマンパワー不足は、まだまだ厳しい状況で す。
 仮設住宅に住む外来患者さんは、ベッドとポータブルトイレ、テレビでいっぱいになる部屋に閉じこもっていました。「震災、失業、原発、家族の病気、自分 の病気と悪いことばかり続く」と語るこの方は、元原発職員です。

 震災で人の絆が強まったといわれる一方、原発事故による人間関係の分断と対立も痛感し ました。避難や食品の安全基準に対する考えの違い、補償の違い、原発で働く人と脱原発の立場に立つ人…。他の被災地に比べて、取り残され忘れ去られる不安 や焦りを訴える病院のリハスタッフもいました。
 放射能は人の心をズタズタに分断しているけれど、本当の敵はそれを生み出したシステム。貧困な地域や自治体に原発を押し付けてきた政策だと思います。この仕組みを変えないと、人災は繰り返されると思います。
 支援中は放射能の学習会、地域の懇談会、仮設住宅での運動指導や健康講話の見学や補助、民主団体主催のボランティアなどにも参加しました。福島県連など の民医連職員といっしょになると、何とも言えない安心感を覚えました。同時に民医連外の医療スタッフと臨床をすることでの学びも大きかったです。
 七月に支援を終え、昨春に入職した二人の若い常勤職員にバトンを渡しました。南相馬市ではこの間、伝統行事の「野馬追」が二年ぶりに復活、待望の訪問リ ハ事業所が開設したと聞いています。岡山に住む私は、今後も原発事故を風化させないとりくみと併せ、自立へと歩み続ける被災地の方々とつながっていきたい と思います。

(民医連新聞 第1543号 2013年3月4日)