新春対談 原発と原爆 首都圏反原発連合 ミサオ・レッドウルフ 肥田舜太郎医師 いのちの問題と気づけば大きな運動に発展
首都圏反原発連合の中心メンバーで、毎週金曜日に官邸前抗議行動を続けるミサオ・レッドウルフさん。自身も広島で被爆、戦後長ら く被爆者医療の先頭に立ち、民医連の創設にかかわった肥田舜太郎医師。原発と原爆―。講演会で肥田医師を見て「優しさの中にズンとした芯がある人。ぜひ、 お話ししてみたかった」とミサオさん。初めての対談で、同郷だと分かり、「不思議な縁」を感じたお2人です。(聞き手・新井健治)
空気に鉄の味がした ミサオ
悔しさが運動の原点 肥田
―運動を始めたいきさつを教えてください。
ミサオ・レッドウルフ デザイナー業の傍ら、二〇〇七年から脱原発運動を始めました。福島原発事故後、いったん東京から名古屋に避難。三月末に戻ってきた時、空気に鉄の味がした んです。私、有害物質には敏感な体質なので。その時、原発が止まるまでこの運動を続けるんだろうな、との感情が自然とわいてきた。決意するとかではなく、 ふっとそう思ったのです。
肥田舜太郎 広島の軍医として、原爆投下直後から被爆者の救助に当たりました。原爆に直爆された人だけでなく、数日後に広島市に入った人もばたばたと死んでいく。当時 は原因が分からない。人間のいのちを左右する医師が、医学が通用しない殺人を目にする。まるで、ぶちのめされるような仕打ちです。その悔しさから、放射能 の恐ろしさを訴えてきました。
ミサオ 広島市の段原出身で、もともと核兵器や放射能、原発に関心がありました。家族は終戦直後に広島に入り、祖母も母もがんで五〇歳前後に亡くなっています。親戚にも被爆者がいます。
肥田 私も段原出身です。不思議な縁ですね。
―毎週金曜日の官邸前抗議行動はすっかり定着しました。
ミサオ アーティストの視点から見ると、従来の社会運動は若者へのアピールが足りなかった。三・一一前から、デザインに凝った集会ロゴを作ったり、音楽イベントと デモを組み合わせるなど工夫しました。私たち首都圏反原発連合(反原連)が昨年三月から始めた官邸前抗議行動も、これまで参加したことがない新しい人、普 通の人にアピールしたかった。
肥田 知り合いが官邸前に行きましたが、隣近所にいるような普通の人が多く気安く参加できたと話していました。
ミサオ 午後八時で解散、脱原発の一点に絞って訴える、などをルール化しました。子ども連れでも安心して参加できるよう、ファミリーエリアも作りました。一部から 「軟弱だ」との批判もありましたが、事故なく、毎週同じ場所で続けることに意義がある。私たちの拡声器より性能が良かったので、警察車両のマイクを借りた こともあったんですよ。
肥田 それを聞いて、奄美大島を思い出しました。一九六四年、警察の不当な弾圧で南大島診療所の医師が不在になり、支援に行きました。そのさなかに、離島から急 病人の知らせがあった。あいにく島は祭りで船が一艘もなく、民医連を弾圧する機動隊を乗せてきた海上保安庁の巡視艇だけが残っていた。交渉して島まで乗せ てもらい、救命しました。「弾圧するための船を使うなんて」と反対もありましたが、いのちを守ることが医師の使命。病人のいのちに敵も味方もありません。
―運動にかける思いは?
ミサオ 反原連の仲間の多くは、仕事を犠牲にしています。今回の原発事故で日本の政策が転換できないなら、もう永遠に無理ではないかと、身を捧げる気持ちです。
肥田 人のためにいいことをしている、なんて運動だったら、くたびれてやめようと思うね。この運動は飽きるとか、あきらめるとかの次元ではない。原爆も原発も、 焦点は内部被曝。放射性物質を体内に取り込むと、さまざまな健康障害が起きる。政治や科学の問題ではない。いのちの問題です。そこに国民が気づけば大きな 運動に発展する。
ミサオ ええ、官邸前に来る人たちも、「原発はいのちの問題だ」と言っています。
福島県民の切実な問い 肥田
再稼働で参加者が激増 ミサオ
―肥田さんは原発事故後、一八七回も講演しています。
肥田 福島の講演会では、住民から「今日、明日をどうやって生きたらいいのですか」との質問がたくさん寄せられる。自然エネルギーや脱原発も大切ですが、福島に 住む人の切実な問いに応えられる専門家があまりに少ない。被爆国でありながら、日本の医師は被ばく医療の教育を受けず、ほとんどが自ら学ぶこともしなかっ た。
ミサオ 福島県外へ逃げることができる人ばかりではありません。政府は安全宣伝を繰り返すだけで、これでは住民同士が疑心暗鬼になってしまう。結局“弱者”にしわ寄せがいく。
肥田 私はこれまで数万人の被爆者を診察し、相談にのってきました。被爆者の願いは、放射能の後遺症を出さずに長生きすること。「昔から健康に良いと言われてき た生活を続けなさい」と話してきました。お日様とともに起き、夜は早く寝る。暴飲暴食を慎む。要は自らの免疫力を高めること。これは原発事故の被災者も同 じことです。
―官邸前抗議行動は六、七月に一〇~二〇万人も集まり、全国各地に波及しました。
ミサオ 政府が大飯原発再稼働を認めたことで、参加者が爆発的に増えました。メーデーという言葉も知らない主婦も参加している。ところが、安保闘争の名残のような 人たちから「なぜ、官邸に突入しないのか」と批判が来る。私は「ここで突入しても、原発は止まらない。この場所で何回も抗議を続け、政府に圧力をかけ続け ることが大切だ」と説得したのですが。
肥田 私の時代はもっと激しかった。後に「血のメーデー」と言われた一九五二年の集会では、皇居前に集まった市民を警官が警棒で殴るわけ。診療所の看護師といっ しょに、腹に救急セットを巻いて救護に向かいました。血だらけの市民を手当てし、真っ赤に染まったシャツで電車に乗ると、「集会に行ったね。警察が駅にい るから気をつけなさい」と乗客が言う。荻窪駅に着くと、改札口に警官が並んでいるのが見えました。とっさに改札台の上に乗り、「皇居前の事件を話すから聞 きに来い」と怒鳴って群衆の中に飛び降りたら、皆が私を囲んで駅の外に出た。おかげで警官につかまらずにすんだのです。国政選挙投票日直前の弾圧でした。
ミサオ 反原連を「軟弱」と批判する人たちが、かすんでしまうような話ですね。官邸前の参加者は以前より減っていますが、普通に戻った感じ。続けることが大切で、 人数は気にしていません。「毎週では疲れないか」との意見もありますが、定期的に開催していれば「今週は行けないけれど、来週なら」という人も参加でき る。
肥田 たとえ五〇〇人でも一〇〇〇人でも、一時的ではなく、全国で継続的に行うことが大切です。
ミサオ そうです。今は全国一五〇カ所くらいで、同じ金曜日にデモがとりくまれている。これは私たちも予想していなかった。皆さん、同じ場所を使い続けられるよう、ルールを作って運営している。すばらしいです。
根底には安保条約が ミサオ
とことん謙虚になる 肥田
―運動が盛り上がっても、政府は脱原発を決断しません。
ミサオ 政府がなかなか脱原発に向かわない根底には、日米安全保障条約がある。普通の人が参加しやすいよう、官邸前では安保の問題には触れませんが、やはりアメリカとの関係が、どうしても大きな壁として存在しています。
肥田 アメリカの大企業は核関連産業の株に投資しています。日本の原発事故でその株価が下がると大変なことになる。だからアメリカも必死に巻き返す。市民がごく 自然に、原発の大本にアメリカがあると気づくことが大切。指導者が言うのではなく、全国で脱原発デモが行われているように、日本のあちこちから安保がおか しいとの声が上がれば無くせると思う。
ミサオ そうですね。ただ、安保まで理解してもらうのは難しい。メジャーな媒体の報道が不可欠です。ワイドショーレベルで、「原発の背景にはアメリカが…」と言えるようになれば。
肥田 社会運動は「成果を期待していたら、案外そうでもなかった」なんてことを繰り返しながら、次第に深い理解がそろっていくもの。だから焦らないで、自分たち の生きている間に片付かなかったら、次の世代がやってくれるくらいの気持ちで。チャンバラなしに政治形態を変えるという革命は、そう簡単には起きないから ね。
ミサオ そうなんですよね。結局、国民一人ひとりの意識が変わることが、変革の一番の力になると思います。ただ、マスコミが正しく機能していない。反原連は昨年一 二月の総選挙で、各政党の原発政策を比較したフライヤーを作りました。まずは脱原発を実行する議員を選ぶことが第一歩です。
―最後に、ミサオさんから肥田先生に聞きたいことは。
ミサオ 数年前までは講演回数を減らしているとうかがっていましたが、原発事故後は精力的に行動されている。いのちがけだな、と勝手に想像しているのですが。
肥田 そんなドラマチックに考えなくてもいいよ(笑)。九六歳なんて、いつ何が起こるか分からない。どこか出先で、何かをやろうとしてパタッと倒れちゃう。それが僕の最期だと思っている。これは悲しいことでも、辛いことでもありません。
ミサオ たたかう人生が、当然のこととして続いている感じですね。私はスピリチュアル体験が運動の出発点です。
肥田 必然的な構想なしに、行動の中で変わる人はたくさんいます。映画監督の鎌仲ひとみさん(作品に『ヒバクシャ~世界の終わりに』など)も、イラクや私の取材を通して、大きく変わりました。
ミサオ 運動には、誹謗中傷もたくさんあります。
肥田 あなたは「突入する」方にはいきなさるな。日和見と言われようと、なんと言われようと、たくさんの人といっしょに歩いていきなさい。その中で、リーダーは リーダーとしての役目を絶えず学んで伸ばしてほしい。そのためには、とことん謙虚になること。まだ、何も知らずに歩き始める人から学ぶ。それが一番大切で す。
ミサオ 原発を全部廃炉にするには、時間がかかります。でも、せめて稼働ゼロは近いうちに達成したい。本当はデモとかしないですむ社会が一番いいんですが。これからも脱原発の一点で、シンプルで効果的な運動を続けます。
ミサオ・レッドウルフ
デザイナー。 2007年から反原発運動を始め「NO NUKES MORE HEARTS」を立ち上げる。2011年9月に首都圏反原発連合(反原連)を結成。2012年8月に野田首相(当時)と面会し話題に。反原連は13団体の緩やかな連合体
肥田舜太郎 全日本民医連顧問。1944年に軍医となり広島陸軍病院赴任。戦後は全日本民医連理事、埼玉民医連会長、日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長など歴任。著書に『ヒロシマを生きのびて』(あけび書房)『内部被曝の脅威』(ちくま新書)など
(民医連新聞 第1539号 2013年1月7日)
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