発足した被爆者支援広島ネットワーク “原爆症認めて” 集団訴訟終結後も申請却下で訴訟が
八月六日付けの今号は広島から。広島・長崎の被爆者たちが原爆症認定を求めて行っていた集団訴訟は、三年前の八月六日に原告の勝 訴が確定し、終結しました。原爆症認定制度は二〇〇八年度から、「積極認定」をうたった基準に見直されました。ところが、新基準でも原爆症申請の却下が続 出、新たな訴訟も起きています。広島でも一六人が裁判中。その原告を支える被爆者支援広島ネットワークが昨年四月二三日発足(会員、二〇団体個人一四〇 人)。原爆症集団訴訟をささえ、終結でいったん解散した「原爆症集団訴訟支援広島県民会議」の活動を引き継いでいます。代表世話人は広島共立病院の青木克 明医師。いまだに被爆者の救済を裁判に訴えねばならない状況が続いています。(矢作史考記者)
1歳で被爆 入院先から法廷へ
「一歳八カ月の時に被爆しました。当時のことは記憶がありませんが、原爆が落ちた後に下痢 が二〇日続き、小さい頃はよく髪が抜けていたと親から聞いています。昨年三月に起きた福島第一原発事故で指定地域内の立ち入りは禁止されています。国は、 子どもや胎児の放射線の影響は大きいとして、優先的に対策しています。この原発事故対策と私の認定却下とは矛盾しています。この判定にはどうしても納得で きません」。
七月一一日に広島地裁で行われた公判で、原告の武者光人冀(むしゃみつとき)さんがこう陳述しました。
武者さんは爆心地から四キロ地点で被爆しました。その後、心臓弁膜症、糖尿病、高血圧症、左腕の全骨間神経麻痺、前立腺がん、胃がんなどを患っています。この日は入院先から法廷に来ました。
二〇〇八年三月には、前立腺がん、二〇一〇年一月には胃がんで原爆症の申請をしましたが、いずれも「放射線起因性を認めることができない」と、異議の申し立てさえ棄却され、裁判に踏みきりました。
新基準でも認定されない
積極的に認定する範囲(1)爆心地から3.5km以内の直爆、 |
武者さんの申請を却下した新基準は、「積極的に認定する」として被爆当時の条件や七つの疾患を具体的にあげています(右項)。
新基準に希望をもった多くの被爆者たちが、ようやく申請を行いました。が、原爆症の認定件数は確かに増えたものの、却下件数も年々増えています。申請者 のほとんどが認定された二〇〇八年度と変わって、二〇一〇年には却下件数が認定件数をはるかに超える状況に(図1)。
疾患別では、悪性腫瘍や新しく加えられた心筋梗塞の認定率は高くなりましたが、甲状腺機能低下症や造血機能障害では旧制度よりも認定率が大きく下がっています(図2)。また、集団訴訟で認定された疾病が、新基準の下では却下されるなど(図3)、国の言う「積極認定」とは言いがたい現実があります。
証言を終えて武者さんは「私は福島原発事故の避難区域よりも強い残留放射線の影響を受けながら暮らしていました。被爆から七〇年近く経ちます。国は足踏 みをしないで、被爆者の実態に即した認定にしてほしい」と語りました。
残る課題 民医連もささえる
被爆者支援広島ネットワークでは、被爆者の裁判支援や相談会を行っています。世話人会には広島民医連の職員も参加。被爆者検診や相談、裁判には医学的な支援が欠かせないからです。
青木克明医師は「国は被爆者の自然減を期待してか、救済の予算を組みません。いまも原爆症に苦しみながら救われていない人は多いです。また、黒い雨の降 下地域の広がりや在外被爆者など、多くの問題も残されています」と、引き続き被爆者支援の必要性を強調しました。
「原爆症集団訴訟で被爆者と弁護団、支援してくれた人が力を合わせて勝利した経験は貴重なもの。被爆者訴訟支援の活動を引きついでくれる後継者の育成にとりくまなければ」と、民医連の役割も語っています。
(民医連新聞 第1529号 2012年8月6日)
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