私の3.11 (4)岡山 河原 京さん 笑顔がまぶしいハタチの君
東日本大震災で、民医連職員はさまざまな形で被災地にかかわってきました。そこで見聞きし考えたことは支援者の数だけ存在しま す。共有したい記憶や思いを連載で。今回は、ハタチの事務職員、河原京(みやこ)さん。昨年五月、宮城・坂総合病院を拠点にした支援活動に三日間参加し、 忘れられない出会いを、全国青年ジャンボリーで手紙にして読みました。
「名も知らない青年へ」
拝啓、お元気ですか? 君と出会ってから、一年がたちます。私は君の名前を知らないし、今どこで何をしているのかも知りません。記憶にあるのは君が私と同じ歳であること。あと、君が私に放った前向きな言葉くらいです。
支援の最終日、多賀城体育館で足浴を待つ列に並んでいた君の第一印象は「あどけない少年」って感じでした。私と同じ二〇歳だなんて、まさか思ってもみま せんでした。かける言葉が見つからず、決まり文句のように「眠れてますか?」とか「朝ごはん何食べましたか?」なんていうくだらない質問をしていた私に、 君はこんな話をしてくれました。
「二年専門学校に通って四月から働く予定でした。その会社は石巻にあり、家の近くの職場で両親ともに喜んでくれました。でも、あの震災で会社も家も流さ れ、内定は取り消しになりました。この避難所は、それから四回転々としてたどり着いた場所です。多くの友達を亡くしました。生き残った仲間には職安で職探 してる人もいるけど…まだ俺にはそんな気力ありません。でも、なんだかここの生活、嫌いになれないんです。こいつらと遊んでると、いつも励まされるんです よ。今はこいつらの遊び相手が、自分にできる精一杯の仕事だと思ってるんです。なんか子どもって可愛いですよね」。
そう言って君は、周りの子どもたちと笑っていました。私はその笑顔を忘れることができません。 私が見た避難所での生活は、ダンボールで仕切った狭い空 間で、プライバシーのかけらもない居場所にすぎませんでした。こんなところにいれば、感染症の予防もできないし、衛生的でもない。なんて息苦しいところな んだと、見ていました。だからこそ、その生活を楽しいと笑う君の姿がまぶしくてしょうがなかったのです。
今後、君と出会うことは不可能に近い。君の名前を知らないし、どこかですれ違ったとしても君は私に気づかないと思います。髪を切って、少し痩せました。 君もきっと、あの時より男前になっているでしょう? だから君ともう会うことはない、この手紙が届くはずもありません。じゃあ、この手紙をなぜ書いたの かー。
実はこの手紙を読んでいる目の前には、五〇〇人近くの仲間がいるんです。君の話をたくさんの人と共有したいと思ったのです。ここにいる多くの人の中で、 君が生きていくのです。どうかあのまっすぐで凛とした気持ちのまま、素敵な紳士になってください。
(みずしま診療所、事務)
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(民医連新聞 第1525号 2012年6月4日)
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