私の3.11 (2)埼玉 下河雅彦さん ポケットに入れた民医連綱領 介護職として
利用者さんを津波から守ろうと、懸命の誘導作業中に介護スタッフが殉職したことに、同じ職種としてショックを受けました。「遺志を継ぐことはできない が、何かしたい」と支援を志願し、松島医療生協に行きました。お守りに民医連綱領をポケットに入れ、朝と晩に読みました。
四日間の支援は地域訪問でした。長期的支援のための情報収集と、被災者の要望を行政に届ける目的です。家族構成や縁者・協力者の有無、持病、地域とのつ ながり、公・民のボランティアの介入度合い、経済的問題、災害への備えの有無などに、被災状況が複雑に絡み合っており、要望は一軒一軒違いました。
復興のための長期対策は、こういうプロセスが大事なのだと体験的に学びました。そして地域にある医療生協と民医連への信頼や共同組織の重要性を強く感じ ました。また、「支援者」「被災者」の関係は、ともに笑い、泣き、すすんでいく関係であるべきだと支援に対する考え方も変わりました。
被災体験もしました。支援二日目の夜、最大余震の震度六強に襲われました。私たちのいた昭和時代のアパートが、倒壊するのではないかと思いました。しか し最も恐かったのは、続いて発令された津波警報。「逃げろ~飲み込まれるぞ~」という住民の叫び声の中、右も左も分からない夜道を、住民たちと高台に避難 しました。
「死」が頭をよぎりました。その後は、服を着たままリュックと防寒着を枕元に置いておかないと、眠れなくなりました。「玄関口でしか眠れない」と話していた被災者の気持ちがわかりました。
この余震で停電・断水になりましたが、訪問すると、貴重なお湯でお茶を出してくれたお宅がありました。心を頂いたと思いました。「生きていてくれてありがとう」と、抱き合って泣きました。
家族を失い、家を失い、故郷を失った被災者の「心を理解する」ことはできませんが、「心を汲む」ことはできます。これは、日々のケアにも通じます。私はまた民医連綱領を読み返しました。
福島へ
昨秋から、福島での除染活動にも四回参加しています。きっかけは、シンポジストとして出た「介護と震災を考えるシンポ」です。ここで郡山市のヘルパーが、放射能汚染について話したのです。
ボランティアに入ったのは郡山市です。線量を測ると、通学路に面した庭で九〇μSv/h(一〇時間いるだけで年間許容量に達する)、その側溝が五〇 μSv/h。また三〇μSv/h以上の駐車場が二カ所見つかりました。同市の除染マニュアルには「一〇μSv/h以上が検出された場所は市の責任で対処す る」とありますが、それが住民に周知徹底されず、あきらめも手伝い、なかなか機能していないという話も地元市議から聞きました。
1年後の3・11
一年後の三月一一日は福島で、セシウム吸収の試みに失敗したヒマワリ畑の片付けをして過ごしました。ブームのように植えたヒマワリは種だけ回収され、枯 れた本体は放置されていました。イベントで花文字を作るために設置したロープもそのまま。そんな場所もあるのです。ひたすら枯れたヒマワリを引き抜きまし た。
最低気温はマイナス一℃でしたが、放射線対策に羽織ったレインコートのせいで、熱中症のリスクもある作業です。休憩をとると汗が冷え、ガタガタと震え が。ひまわり畑の空間線量は通常の約七倍の〇・七μSv/h、活動被曝線量(積算線量計)は四μSvでした。作業を終え、地元の人たちと午後二時四六分に 黙祷を捧げました。
福島の問題は福島だけの問題ではなく、朝日訴訟のような、人権を守るたたかいでもあると思います。「安心して住み続けられるまちづくり」の実現。そし て、素晴らしい日本国憲法の精神を発展的にすすめ具体化していくために、民医連魂を持って、今後も支援に携わっていこうと考えています。
(医療生協さいたま、介護福祉士)
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(民医連新聞 第1523号 2012年5月7日)