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民医連新聞

民医連新聞

私の3.11 (1)北海道 髙橋正和さん “民医連”を実感した出来事

 東日本大震災で民医連職員は、さまざまな形で被災地にかかわってきました。そこで見聞きし考えたことは支援者の数だけ存在します。共有したい記憶や思いを連載します。

 昨年三月一六日から四月二一日まで、私は坂総合病院で全日本民医連の現地対策本部を手伝い ました。その一カ月余を通じて、民医連はすばらしい職員のいるすごい組織だと実感しました。民医連の運動方針や『被災者に寄りそう医療』にも記されていま すが、私が現地にいた間にも、印象深い出来事が数多くありました。この中から、本には書かれていないエピソードを二つ紹介します。

命がけの仕事をためらわず

 仙台市若林区にあった長町病院のカルテ倉庫が津波に遭い、大量のカルテが広範囲に散乱しました。宮城県からは、カルテの回収指示が出ました。いつ起きるかも分からない余震と津波。海岸周辺まで行っても、津波警報のサイレンは壊れて鳴りません。まさに命がけの作業です。
 四月四日に対策本部で検討し、翌日、現地を調査することに。その夜の支援者会議で内容を報告し、八人の調査隊を募ると、間髪入れず奈良の医学生たちが手 を挙げました。医学対の職員がそれに続きました。その場で自然に拍手が起こりました。支援者が一体になっていました。
 その調査の二日後に最大余震(震度七)が発生しています(この調査結果を県に報告したところ、回収不能と判断されました)。

避難所の看護師たち

 二つめの出来事は、その約二週間後。仙台市宮城野区の岡田小学校の避難所でのことです。ここには三月二〇日から民医連の看護師二人が泊まり込み、二四時間の支援にあたっていました。
 やがて自治体の医療支援が安定的に入るようになり、そこでの常駐を終了することに。四月一七日に看護師が引き上げてきました。しかしその夜、避難所から 電話が入り「話があるので来てほしい」というのです。急ぎ向かうと、皆さんの話はこうでした。「昼間は自治体職員もいて本音が言えなかったが、外の支援よ り民医連の看護師さんに居てほしい。それが皆の総意だ」。
 その夜のうちに看護師派遣を再開。その日到着した大阪の看護師二人が、ほどいた荷物を再びまとめ、夜一〇時に小学校に行ってくれました。泊まり込みは、避難所が閉鎖する五月末まで続きました。
 この避難所での看護師の活動は、まさに被災者に寄り添うものだったそうです。音楽室が作業所兼寝室でしたが、容体の悪い人がいれば引き取って夜も見守 り、感染症の疑いの人が出た時は音楽室に寝かせて、自分たちは大勢の避難者と一緒に眠ったそうです。その姿が避難者に大きな安心を与えたのだと思います。
 このようなケアは、民医連の事業所では、日々行われていることです。困難な中でもチームワーク良く、避難者に必要なことは最大限やろう、というがんばり は、やはり「無差別平等の医療・福祉の実現」「命は平等」という民医連綱領が共通の羅針盤としてあるからだと思うのです。
 北海道から飛行機で羽田に向かう時、眼下に被災地の赤茶けた大地がいまだに続きます。今回の災害の復興には多大な時間と労力を要するとはいえ、作業があ まりにも遅い。政府はTPPや「一体改革」を言う前に、すべきことはいっぱいある。今後もそう訴えながら、全国の仲間と地域の健康・生活を守るために全力 をあげたい。そして、被災地の医療・福祉をささえる仲間が本当に元気を取り戻し、地域とともに復興をすすめられるよう願っています。(オホーツク勤医協、 事務)

■募集■この連載に出て下さる方。自薦他薦問いません。min-shinbun@min-iren.gr.jp

(民医連新聞 第1522号 2012年4月16日)