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民医連新聞

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あれから1年 今日、明日を生きる 被災地発 宮城・松島医療生協

 東日本大震災で宮城・松島医療生協は甚大な被害を受けました。職員三人をはじめ、利用者や組合員さんを失い、東松島市にあった通 所介護施設なるせの郷の閉鎖を余儀なくされました。津波に奪われたものが何にも代えがたいものだったと全国の仲間たちも思っています。一年後の松島医療生 協を訪ねました。(木下直子記者)

 三月一一日、なるせの郷の跡地に献花台が設置され、三〇〇人を超える人たちが追悼に訪れま した。施設のあった野蒜(のびる)地域は海から約一kmの距離にありましたが、一帯が津波に襲われ、避難所に指定されていた隣接の野蒜小学校体育館に逃げ 込んだ人たちから多くの犠牲が出ました。当時施設にいたのは職員八人と利用者一七人。利用者たちを懸命に守ろうとした所長や二人の職員、そして一二人の利 用者の計一五人がここで命を落としました。また東松島市にいた約七百数十人の医療生協組合員さんのうち確認できただけで一〇〇人余が亡くなっています。
 「早かったようにも感じるし、やっと一年…と思うこともあります」と、介護福祉士の鈴木悠子さん。「あの日私は休暇で、みんなと一緒にいられなかったから」と、産休中の身体をおして、この場所に立っていました。

 被災後、なるせの郷の機能は職員ごと隣町・松島町の松島海岸診療所に移行。診療所のデイサービスの定員二〇人を三〇人に増やし、六月からは土曜の運営も開始。なるせの郷の利用者を優先して受け入れています。
 医療機器や、施設の破損などで法人の損失も大きく、職員四人が県連内の別法人や地元の施設に出向しました。
 そして、新しい施設を松島町につくろうと計画中です。訪問看護とデイサービス、居宅支援事業所の併設型です。

地域に向き合って

 また、地域の困難にも民医連らしく向き合おうとしています。八月からは、組合員さんたちと ともに、東松島市の仮設住宅で「血圧測定班会」やボランティア鍼灸師の治療つき「茶話会」などを始めました。津波被害が比較的小さかった松島町にはない仮 設住宅が、同市には三〇〇〇戸近く建てられています。犠牲者数は石巻市に次ぐ規模。全世帯の七三%が全・半壊、一部損壊をあわせると被害は九六%に。 「『うちは大丈夫』と言う人も実は、家が流されず命は助かった、という比較で、多くが何らかの被災をしているんです」と、法人の青井克夫専務。

いま思うこと

 被災直後から、職員たちは医療・介護の復旧作業と並行して利用者や組合員さんの安否確認などに奔走を続けました。平常に戻ったかのように見える今も、様々な思いを抱えています。
 「震災から歩み出せない人もいます。私もまだ亡くなった所長に『さよなら』は言えない」と、なるせの郷に勤めていたケアマネジャーの村山敏子さん。震災 当日の午後は非番で、発災後すぐになるせの郷をめざしましたが、道路の寸断でたどり着けず、翌朝ようやく建物に入りました。誰かがいるはず、と泥を分けて 上がった二階には誰もいませんでした。そして建物を出て、向かう時には目に入らなかった犠牲者たちの姿がそこここにあったことに気づきました。この体験か ら今も細くて暗い道には足がすくんでしまいます。
 「私たち、生きられなかった人たちの分、今日・明日を生きなきゃいけないんですよね。所長がめざしていた施設づくりもこれから。制約が増えた介護制度に 対しても、たたかうケアマネにならなきゃと、話し合っています」。
 診療所・おたっしゃデイの石渡さおり主任(看護師)は、困難な中でもスタッフをまとめ、デイを運営してきました。震災を機に、預かった責任の重さに気づ き、「私に背負いきれるのか?」と不安に襲われたことも。それを拭ったのは同僚や組合員さんや三〇〇人余の全国の支援者の存在でした。「 『 みんなでささえてる』と考えなおせました。震災で見えないものが見えたかもしれない」。
 「一年という区切りがかえって悲しい」と語ったのはまつしま訪問看護ステーションの岩渕純子所長。「でも、いま思うと民医連や医療生協だから、ここまで 来られた。あの時仕事にかかりきりだった私の自宅の泥出しまでしてくれた支援者たちがいました。ちゃんとお礼も言えなかったのが残念ですが、色んな人から もらった思いをつなげていきたい」。

 地震発生時間の午後二時四六分、防災無線が黙祷を呼びかけました。静かに「次の一年」が始まっています。

(民医連新聞 第1520号 2012年3月19日)