かあさんの「ほのか」な幸せ ~眠りっこ子育てetc.~ (18)くりかえす苦悩、そしてひとすじの光(下) 文:西村理佐
帆花のようないのちは、「生産性尺度」によって「劣」をつけられると同時に、障害を持って生まれてきたことに対して、本人の自己責任が問われ、そのよう ないのちを生んだ親に対しては「エゴだ」などと言われる。言うまでもなく、障害は確率であり、本人に責任や罪など全くなく、そのいのちが「親のエゴ」で生 きているなんて言語道断、尊いひとつのいのちに対する侮辱である。かあさんの「エゴ」で、帆花が元気で生きていてくれるのなら、かあさんは「エゴまみれ」 の人間になったって構わない。いのちが「そこに在るということ」に対しては、誰かの意思や思惑など本当にちっぽけなことだ。
「かあさん以前」の自分の中にも、ひょっとしたら、障害の自己責任論の延長線上に、「親が自分を犠牲にして面倒をみるのは当たり前」という考えがあった かもしれない。むろん、かあさんだって帆花を心から愛しているし、帆花を24時間見守っていることをやめたいなどと思わない。だが、その気持ちだけでは実 際に生活は保てないし、「愛情」と「支援を求めること」は、本来、相反しないはずなのだ。
万年寝不足、しょっちゅう痰を詰まらせる帆花と生活しながら、「かあさん」になって初めて実感したこと、浴びせられる批判に隠された矛盾、ただ生きるた めの支援の必要性、それらを語り続けることはとても苦しい。だが目の前の帆花はいつも、生きることを喜び、自分以外のいのちを否定することなく、たくさん のいのちを呼び合っている。
障害児が「特別」なのではない。いのちに「特別」などない。帆花はかあさんにとって、その大切な本来的意味を絶えず指し示す「ひとすじの光」だ。かあさ んはその「ほのかな光」を頼りに、これからもくりかえされる苦悩の中で、語り続けていこう。(連載おわり)
(民医連新聞 第1519号 2012年3月5日)
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