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民医連新聞

民医連新聞

被災地発 2012年新春 みんなで生きよう 「チーム縁日」がつなぐもの 宮城

 二〇一二年最初の民医連新聞は、被災地発でスタートです(1~3面)。新しい年、ひとつでも明るいニュースがありますように。

 まずは、宮城の仲間たちのとりくみを。宮城県は津波の被害を広域に受け、 被災した中でも最も多く仮設住宅が建てられている県です。「仮設に身を寄せている被災者たちのコミュニティーづくりを手伝えないだろうか」―こんな目的 で、坂総合病院(塩竃市)職員有志が結成したボランティアチームの活動を紹介します。その名も、「チーム縁日」です。(木下直子記者)

湯気の向こうの笑顔

 「おいしいもんだねぇ」「あったかいナ」お婆ちゃんから子どもまで、白い湯気の立つお椀を抱えて満足な顔。一一月六日、多賀城市の一角にある山王仮設住宅(四四戸・一一九人)で開かれた水餃子の会です。一五畳の集会所に数十人が集まって、実に賑やかです。
 この企画の仕掛け人が、坂総合病院有志でつくる「チーム縁日」です。「みんなで作ろう!」と仮設に張り紙をし、呼びかけていました。朝から始めた食材の 下ごしらえや調理は、調理器具を抱え、エプロン姿で集まった住民たちと職員の共同作業になりました。野菜を切る人、おにぎりを握る人、デザートのスイート ポテトも手づくりで。地元名物の水餃子三〇〇個の下茹で作業は、男性たちがかって出ました。
 炊きだし準備と並行して、マフラーや膝掛け、靴下や冬物下着などの支援物資コーナーも店開き。
 併せて、子ども支援団体の黄色い絵本バスもやってきました。
 「ここまでやる病院がある。私たちも一生懸命やらなきゃ」と、賑わいの傍らで女性が。市から委託を受けた仮設管理スタッフです。

健康調査で抱いた懸念

 「チーム縁日」は、坂総合病院の医師や医局事務などで結成。活動内容はまさしく仮設での 「お祭り」企画で、中心メンバー七人が、どの仮設で開催し、どんな内容にするかを考え、事業所の仲間に協力を呼びかける形。七月から年末まで縁日や花火、 映画会などを三カ所で四度実施。協力した職員は約五〇人になります。
 なぜ縁日か。きっかけは、六月末に多賀城・塩竃両市の全仮設(六カ所)に同院の職員たち八〇人で健康調査に入った時に抱いた懸念です。建物のつくりこそ 長屋なのですが、住民たちは異なる地域から集められ、交流もなく暮らしていました。孤立防止にと設けられた集会所もほぼ未使用。この時、孤独死も一件判明 しました。
 病院では七月から多職種でパーソナル・サポートチームをつくり、仮設での健康相談会を毎週行う体制を組んでいました。気になる人たちのフォローはここで 一定可能ですが、健康相談には出てこない住民を含めて関係を橋渡しするしかけが必要でした。
 「それで『縁日』なら、と思いついて」とリーダーの大槻真由美さん(事務)。「阪神大震災の仮設で多発した孤独死を出すのはイヤ」と、健康調査に一緒に回った佐藤美希医師と話し合いました。

「生き返った」

 縁日の効果のほどは…。調理する人たちの中に、六月の取材時に会った女性がいました。元気を失っていた当時とは別人のような笑顔で再会を喜び、「私、生き返ったでしょ」と、記者の手をぎゅっと握りました。
 山王仮設で縁日が企画されたのは、七月二九日のこと。チームが初めて手がけた縁日でもありました。この日を境に、住民同士の関係も円滑になっていったと いいます。「住民が集まると、いまだにあの最初の縁日のことが話題にのぼるんだそうです」と、佐藤医師は話します。自治体からも「次はこの仮設で開いてく れないか」と、声がかかったほど。
  秋の共同組織強化月間には坂総合病院の健康友の会に、一七世帯が加入。仮設で班会が開けるようにもなりました。幾重にもつながりが作られ始めています。

「自分たちの地域だ守らなきゃ」と思いは強く

やりがい感じる

 前出の大槻さんは振り返ります。
 「病院が医療機関としてとりくんでいる仮設への支援の中から浮上する、医療・介護のワクを超えた課題に『チーム縁日』の出番がありました。半ば『勢い』 で始めましたが、色んな意味でやって良かった。震災前は病院の業務にかかりきりで、地域に出る機会も少なかった。被災者の生活を肌で感じて『自分たちの地 域だ。守らなきゃ』って気持ちは強くなる。そういう同僚たちは他にもいて、喜んで活動しています」。

 研修医一年目の千葉茂樹さんも、チーム縁日の呼びかけに積極的に応えている一人。「この一年足らずで、やりたいことをさせてもらっている」と話します。 医学部卒業間近で「地域医療をしたい」と、民医連への入職を決めた人です。
 初夏に民医連が気仙沼市の本吉病院への医師支援を行った時も、先輩医師に同行しました。「僕らの病院は他がなかなかできないことをやるんですよね」。
 千葉医師の故郷は南三陸町です。生家は津波で流され、家族も被災。医師修行の傍ら、故郷の復興に動こうと兄や二〇代の同級生たちと「南三陸の懐かしい未来を実現する会」を結成しています。
 「医療者の視点で関われればと。三陸方面の医療崩壊は震災でもはっきりしました。将来、民医連の診療所が開けないかな…とも。最近『小医は病気を治す、 中医は患者を治す、大医は社会を治す』という言葉を知って『大医に』と言える段階じゃないけど(笑)、社会的な問題に関わっていきたいと改めて考えまし た。未熟児で生まれて命拾いして『人のため生きろ』と言われて育ったのが医師になる動機だったんですよ」

 チームには次なるもくろみもあります。民間の借り上げ住宅などにいる被災者の問題です。「多賀城市だけで一五〇〇人だそうですが姿が見えない。情報も支援もなく埋もれている人たちへの支援を模索中です」と大槻さん。
 「震災を生きのびた命を守りたい」―思いを貫いて、今年も彼らは走り続けます。

(民医連新聞 第1515号 2012年1月2日)