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民医連新聞

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マルフクは支えだっちゃ ―宮城・宮城野の里 民医連初の福祉避難所の話

 宮城野の里(宮城厚生福祉会)は、仙台市宮城野区にある高齢者福祉施設です。ここに設置されていた福祉避難所・愛称「マルフク」 が、5月31日で閉鎖しました。激震にライフラインがやられ、施設運営も困難と思われる中、介護が必要な被災者を迎え、支えた72日間。民医連の事業所が 初めて手がけた福祉避難所でした。(木下直子記者)

 三月一一日、宮城野の里でも敷地の陥没などの被害が出ました。水や電気が停止 し、電話も不通に。同施設は三〇室のケアハウスのほか、ショートステイ二〇人、デイサービス四五人で運営しています。通所の人の帰宅も困難で、一二〇人超 が施設で夜を明かすことに。剥がれた敷石のレンガを積んでカマドにし、生け垣の横木を外して燃やし、食事を作るなど、職員は知恵を働かせ、利用者を守りま した。
 職員たちが避難所や地域まわりを開始したのが三月一二日。その翌日に薪や食料などの支援物資が届きはじめて、おにぎりなどを携えて歩きました。

避難所の要介護高齢者

 地域に出てみると、宮城野区の被害は甚大で、海沿いは津波で壊滅状態とわかりました。
 避難所では、地震の恐怖や集団生活で不穏が強まった認知症の人や、在宅療養中に被災した寝たきり高齢者に遭遇しました。福祉避難所で保護すべき人たちでした。
 「福祉避難所」とは、一般の避難所で過ごすのが困難な高齢者や障害者向けの避難所です。震災関連死の防止を目的に、阪神大震災後に導入されました(九七 年)。仙台市でも、五二施設を登録。しかし、震災が起きると、施設自体が被災したり、職員が確保できないなどの事態が起きました。
 仙台市によると、今回の震災で稼働した福祉避難所は四〇カ所で、そのうち登録施設は二五カ所。登録施設に特養ホームが多かったことで、認知症や医療的ケ アが必要な人が受けいれられない「ミスマッチ」も出て、市が急きょ、登録外の老健やグループホームに受け入れを要請するケースもありました。市の担当者は 「認知症や医療依存度の高い被災者が思いのほか多かった」と話します。
 宮城野区にあった施設も海沿いの二カ所が津波にやられました。「もともと施設の数が少ないところに、自治体から定員の一割増で受け入れ要請もあり、福祉 避難所を開こうにも手が足りない状況でした。全日本民医連の支援が入って、開設が決断できました。『うちは民医連だ、必ず支援が来る』と、職員たちには話 してはいたんですが、ありがたかった」と、法人事務局長の海和隆樹さん。仙台市からも電話一本で開設が了承されました。

介護職のリレー

 三月二一日、大急ぎでかき集めたレンタルベッドを食堂に並べて福祉避難所が開設されました。
 立ち上げから運営を担ったのは支援者たち。総勢約二〇〇人、うち約五八人が介護施設の団体「21老福連」を通じて来た人たち。避難所の愛称も「マルフク」と命名。
 津波に自宅を流され、帰る場所を失った利用者や家族、避難所にいた要介護高齢者らが、最大で二三人が過ごしました。固有スペースはベッドのみ。避難所よ りマシな程度だったかもしれませんが、優しい声かけや見守りがあり、生活には介護職らしい配慮も凝らされました。兵庫のスタッフがたこ焼きを焼けば、北海 道のメンバーはチャンチャン焼きを披露。お茶を点(た)てた人もいます。
「故郷は津波で流されたけど、ここにいた時間が今後の支えだっちゃ」と、もと入居者が語ります。
 マルフクにいた人たちは皆、介護認定をとり、アパートや施設などで新生活を始めています。

被災して得たこと

 福祉避難所を通して、海和さんは様々な実感をしています。「要介護」状態の人でも介護保険を使っていない場合が多いこと。併設の地域包括支援センターを先頭に、宮城野の里が民生委員など地域としっかり結びついていたこと。
 面識のない人たちからの支援も驚きでした。農家からは野菜が、倉庫会社からは冷凍食品が届きました。個人で水やオムツを持ってきた人も。「深くは知らな くても、施設には弱者がいると認識していて、力を貸してくれたんです」と海和さん。
 「民医連の施設の使命がみえました。人と人をつなぐコミュニティーとして、また緊急時は救援拠点にもなる。地域の『社会資源』にならなくちゃ」。

(民医連新聞 第1502号 2011年6月20日)