『民医連新聞』心に残る記事 ~1500号記念~
今回のテーマは「『民医連新聞』心に残る記事」。読者のみなさんから、これまでに読んだ記事の中で心に残った記事を寄せてもらいました。また、今回は1500号を記念して、新聞編集部OB・OGたちから、メッセージも届きました。
●2007年 新年号
「ご近所の底力になる~マンモス団地の階段調査」
北海道・もみじ台団地診療所
いままでで、よく覚えているのは、エレベーターのない公営住宅の問題にとりくんだ話です。
小林優子・島根
北海道、エレベーターのない団地で、在宅酸素の患者さんが、二階以上にどれぐらい住んでおられ、どのような生活を強いられているのかを調査し、一階に転居できる運動をした記事。
声をあげられない人たちの目線で、生活の場に入って生の声を聞き、その大変さが解消されるまでこだわり続けて改善を見届ける、ここまでやって初めて「私たちの役割が果たせた」と言えると思います。
自分たちの仕事を振り返りつつ、口先だけに終わらないとりくみをしたいと思いました。
銭湯がなくなった地域でお風呂のない高齢者の問題で奔走する記事もありましたね。民医連新聞をちゃんと読んで、自分たちの活動に実行力とエネルギーをもらえるようにしたい。
是澤雅代・京都
●2005年 新年号
「盗塁の数だけ車イスを贈り続けたい」
阪神タイガース・赤星憲広
阪神タイガースの赤星憲広さんの車いす寄贈記事。
岡本絵美子・兵庫
阪神の赤星憲広選手が盗塁一回につき、車イス一台を寄付している、という記事を記憶しています。
翌年の新年号は福岡ダイエーホークス(当時)の和田毅投手のワクチン寄贈の話が。日本のプロスポーツ選手がそうした活動を始めたきっかけだったと、いまになって思います。
体重0・1トン
●2009年 10月19日
「水俣大健診1051人9割に所見 重症も多く
国は根本から対策見直せ」
水俣病で苦しみ、救済されていない人がたくさんいると知りました。民医連だからこそ全国の力が結集できることに感動。これからも、原発事故の現場で働く労働者、住民の検診など、被害防止と救済を載せて下さい。
上原美代子・長野
●医師会長と民医連会長の対談(今年の新年号)が印象深いと思ったのですが…。
いま、四月一八日付の坂総合病院のアピール文を読み、心に響いた。ものすごい現場の中で命と向き合い、救うために職員がわが身の姿などかまう暇もなく働いている情景が見えてくるようだ。そして、最後の二行も、希望が見えてくるようですばらしい。これこそ、私の心に残るものでした。
赤坂博子・北海道
●私の一押しはやはり、「診察室から」の長野・松本協立病院の芹沢医師の「20年前は、銀行員でした」です(二〇一一年一月二四日から三回連載)。
この四月から、「優秀」ともてはやされた甥は銀行に就職しました。いざ就職して「なんか違う」と言い出しました。そこで、彼に芹沢医師の話をしました。
守家美生・山梨
編集部OB OGからのメッセージ
25年前の編集長…今中正夫(東京在住)
入稿日は10時、11時まで残業。長時間労働はいけないが、いい新聞をと懸命だった。書き直しを何度も求める編集長(私)は横暴で未熟だったが、素晴らしい仲間との仕事は楽しかった。
1987年の6月21日付に国保問題を取り上げた。生活実態ルポ、保険料値上げ・保険証未交付の全国調査、各地のたたかい。当時「国保問題は民医連新聞 を見ないと分からない」と評価された。これは全国の通信員の役割が大きかった。地方議員が民医連新聞を手に議会で国保料値下げを迫った。
民医連新聞は、職場や地域のとりくみを大事にし、全国の団結を作っている。
13年前の編集委員長…久保田泰造(全日本民医連理事)
思い出すのは、小林秀雄編集委員長(医師)や野崎和彦編集長のこと。いまは亡きお2人ですが。
映画監督の山田洋次さんは「対話ができる人たちは、ぶつかりながらも円滑に生き、対話できない関係はダメになる。真面目に話し合わなきゃ」と語っています。
民医連新聞も、職場で向き合って真面目に民医連の話ができる、話題になる新聞にしたいですね。
17年前の記者…黒田あきさ(宮城・つばさ薬局長町店、事務長)
「超ど素人」だった自分の記事が全国に配られたと思うと恥ずかしい。当時は月三回発行のブランケット版。モノ作りの楽しさはあったが、〆切に胃が痛み、 未熟さが出る仕事が嫌で、早く異動したいとも思っていた。
でも、忘れられない取材が2つ。1つは医学生100人インタビュー。民医連で働く意味を逆に教えられた。もうひとつは阪神大震災。発生10日後に神戸 へ。取材ではなかったが書かずにおれず、現地から原稿を送った。編集長に初めて褒められた。各地の「素人」出向者が、新聞に携わる意味を今は理解できる。
9年前の記者…鐙(あぶみ)史朗(石川・羽咋診療所、事務)
思い出の取材は、『Dr・コトー診療所』の作者・山田貴敏さんのインタビューです(2004年新年号)。ドラマをみた人、漫画を読んだ人もいると思います。
編集部での私のあだ名は「芸能担当記者」。「誰を取材しよう?」と、資料収集。編集に参加できて光栄でした。
7年前の記者…荒井正和(長野中央病院、事務)
北から南まで、取材で全地協に行きました。飛行機が苦手で、陸路で長距離移動。取材前日に発ち、寝台列車の中でインタビュー項目を練り、帰りの車内で原 稿を書いたことも。余裕があれば、取材先近くの居酒屋で「情報収集」もしました。
2007年に研修で…渋谷真樹(「北海道民医連新聞」編集部)
北海道で新聞を担当するにあたり、研修で半年間在籍しました。編集長に点検された自分の原稿は真っ赤に訂正され「やばい、俺」と頭を抱えました。しか し、他の記者も同じように直されていました。民医連新聞は「少しでもわかりやすく」と練られていたんですね。人見知りの僕は取材も緊張。受ける側も大変で すが、記者もうまく伝えられるだろうかとドキドキ。
北海道に戻って、研修で培った経験と度胸でホームレス24時間取材をして大反響。新聞づくりは、やりがいがあります。
2011年3月まで編集長…小林裕子(東京在住)
民医連内外でいくつも仕事をしましたが、一番長かったのが「民医連新聞」。新しい出会い、興味深い活動、取材は楽しかった。お世話になったみなさんに、 この場を借りてお礼を申します。どんな仕事でも「新たな自分」が発見できますが、私の場合、書くのが好きだと知りました。ついでに人の文章に手を入れる癖 (!)や、方向音痴。
取材では相手の輝きをみたとき「書ける」と実感。オバサン丸出し取材だったと反省もしますが、得るものも大きかった。
後輩のみなさんへ(小声で)個性と感性を出していい、(大声で)全力で取材し、良い記事を書き続けて。民医連の運動と人は、感動の宝庫です。
(民医連新聞 第1500号 2011年5月23日)
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