被災地の新人たち “体験、無駄にしない”
現場に新入職員の姿が見られるようになりました。ちょっと緊張した表情、真新しい制服。被災地でも新人たちを迎えています。例年のようなおごそかな入職行事はありませんでした。4月1日の彼らに会いに行きました。(木下直子記者)
黙祷で始まった
坂総合病院を擁する法人・宮城厚生協会には、今年度九三人が入職。辞令伝達式はとりやめ、「新入職員集会」を開きました。震災の影響で間に合わなかった人もいますが、六八人が集合。
震災で失われた命に黙祷を捧げて集会は始まりました。
同協会の水戸部秀利理事長は、三月一一日の震災発生直後から、先輩職員たちが、全国の民医連職員の支援を受けながら、地域の命をささえ続けていることを 報告し「みなさんに身につけてほしいのは、医療技術とともに、今回示されているような、常に困難な人に寄り添う『民医連の魂』です」と語りました。
「笑顔は無敵」…だから
新入職員を代表して、看護師の伊藤佳菜さんが決意表明しました。立ちあがりましたが、嗚咽して、なかなか話し出せませんでした。伊藤さんは看護学校のある石巻で被災、そして仙台市若林区にあった実家一帯も津波にさらわれ、ふるさとを失いました。
「今回たくさんの辛い・悲しい・苦しい思いをしたからこそ、私たちはその思いをわかってあげられるのではないか。一人ができることはちっぽけでも、集まると大きな力になります」
「笑顔は無敵、笑顔は伝染する、と思います。だからこそ私は、笑顔のある、そして与えられるような看護師になりたい。今回の経験を忘れず、この出来事を 無意味なものにしないため、今後の看護活動に活かせるよう精進したい」。
入職前はボランティアで
伊藤さんの話を、同期たちは身じろぎもせずに聴いていました。その中には前日まで「ボランティア医学生」として坂総合病院に詰め、救援物資の運搬や避難所での職員たちの活動を補助した研修医・児玉貴之さんの顔も。
「人とモノをこんなに短時間で集める民医連のすごさを僕は見ました。避難所訪問では家を流されたという高齢者に会い、話をひたすら聴くだけだったのです が『役に立てた』と実感しました。医療の限界も痛感、でも少しでも人の力になれる医師になりたい、患者さんに寄り添いたい、とまた思った」。児玉医師もこ う決意しています。
集会会場は全国からの支援者たちが寝起きしているクリニックでした。窓際には畳んだ毛布、隅の机には支援者の食料が積まれ、壁際の黒板にはここで眠った 山梨民医連のメンバーが書き残していった「がんばれ!」のメッセージ。花もない、スーツ姿でもない、しかしこんなに印象に残る四月一日があったでしょう か。
フル稼働の2人
セレモニーもなく、フル稼働していた新人たちもいます。みやぎ保健企画の事務職員・山田知さんと川口暁さん、四月の本採用を前に、二人は三月からパート職員としてつばさ薬局多賀城店に通い始めていました。そして、業務に慣れる間もなく迎えた三月一一日。
震災後、山田さんは津波で床上浸水した松島のつばさ薬局で何日もドロの除去など復旧作業にあたりました。通勤ができなくなった川口さんも、自宅に近い系列薬局の支店の支援へ。
数日後、多賀城店の仕事に戻ると「津波で薬を流された」「処方せんがない」「保険証がない」といった患者たちが押し寄せていました。顔から血を流したま ま駆け込んでくる人、低体温で真っ青な顔の人が毛布にくるまり薬を待つ姿も見ました。交通整理し、ひたすらレジを打ちました。
「震災までの一〇日間、『腰イテー』と考えるくらいでしたが」と川口さん。「この二週間で調剤薬局の役割を感じたし、医療機関の一員で良かった」。
「それにしても、四月一日があっという間に来た」「辞令はちゃんともらえました」と二人で笑います。
宮城民医連では、この春一〇〇人を超す新入職員を迎えました。
長期体制に切り替え 介護支援も本格化
被災規模は甚大でした。全国支援も長期的視野の体制に切り替えています。
全日本民医連の介護・福祉部は三月三一日、「被災地域・避難所に私たちのケアを届けよう」という訴えを出し、「介護職の出番」と、呼びかけています。
ケアハウス宮城野の里(仙台市、宮城厚生福祉会)では、認知症や介護必要度が高い被災者のための「福祉避難所」を開設しました。食堂にベッドを置き一六人を収容、ケアを担うのは支援者です。
「認知症の人を隔離していた避難所もありました。混乱して建物から飛び降りようとした人も。仙台市には一一カ所しか福祉避難所がなく、人手さえあれば… と思っていたところ、全国の支援が入り、踏み出せました」と、法人の海和隆樹事務局長は語っています。
(民医連新聞 第1498号 2011年4月18日)