いのちつなぐ看護 「弟を助けて…」 水俣病の兄に応えて 熊本・水俣協立病院 山近峰子(看護師)
患者・利用者に寄り添う、さまざまな実践を持ち寄った第一〇回看護介護活動研究交流集会。その中から熊本と石川の実践を紹介します。
今年三月、当院に一本の電話がかかってきました。「とにかく見に来てください」。声の主は 隣町の町議会議員。街頭で宣伝中に「寝たきりの弟を助けてください」と、水俣病の兄が頼ってきたというのです。それが、鈴木さん兄弟(仮名)との出会いで した。「水俣病」と「貧困」の中で、独身の兄弟は肩を寄せ合って生きていました。私たちは「人間らしく生きてほしい」との思いで支援を始めました。
新聞紙がおむつ代わり
兄弟は二歳違いで、ともに五〇代です。二人とも無職で、収入は兄の水俣病療養手当て(月額一万七二〇〇円)だけでした。国保料の支払いが滞り、手元に保険証がなかったため、弟を病院に連れて行けなかったのです。
当院から三五キロ離れた鈴木さんの自宅を訪問した私は、暗さと異臭に驚きました。便や尿の臭い、カビとタバコの臭いが充満し、家が道路より低い位置にあるためか光がまったく入らないのです。電気は止められていました。
弟が寝たきりになったのは数カ月前からでした。頬がこけ、足は腫れ、会話もできず、何かに脅えているようでした。体に少し触れるだけで「痛い」と言い、とくに下肢には激痛があるようでした。
おむつを買うお金がなく、近所からもらった新聞紙を当てていました。屋外に五右衛門風呂がありましたが、最後に入浴したのは三カ月前とのこと。弟の髪は 肩より長く、ひげは一〇cm以上伸びていました。食事はカップラーメンやインスタント焼きそばばかり。兄が食事介助をしていましたが、「肉や魚は長いこと 食べていない」と話していました。
このままでは危険と判断
電話をくれた町議は、兄から訴えがあったその日、すぐに兄弟の自宅を訪ねたそうです。「なんとかしなければ」と市役所に連絡し、近隣の公的病院を受診するように手配。
町議は「この状態では入院だろう」と思っていたそうですが、病院は「入院してもいいですが、帰ってもいいです。入院しても特にすることはありません」と 弟を帰宅させてしまいました。町議は二日後に兄に様子を聞こうと自宅に寄ったところ、弟が家にいるのにびっくり。当院に電話をかけてきたのです。
鈴木さんの状態と生活状況を見た私は、このままでは危険だと判断し、当院に連れて帰ることにしました。すぐに院長に報告し相談。私の知人に搬送の協力を頼み、兄弟を車に乗せて、病院へ向かいました。
病院に着くとすぐに医師と面談し、外来受診の前に入浴、散髪、ひげ剃り、爪切りなど二時間かけて身体をきれいにしました。診察と採血の後で食事をとってもらいました。入院することが決まり、この時の病名は低タンパク血症でした。
退院後は救護施設に入所
入院に必要な衣類は、職員に提供をお願いしました。兄は電車代がないので、面会に来ることができません。そのため、弟の衣類の洗濯などは病棟の看護助手が担当しました。
入院生活は三カ月以上にわたりました。職員たちは、毎日の看護・介護、身の回りの世話のときに、声かけや会話を心がけました。バランスのとれた食事が毎日取れるようになると体力がつき、手足の痛みは内服薬とリハビリの効果で、日ごとに回復していきました。
町議の援助を受け、生活保護を申請し、生活費や医療費の心配もなくなりました。退院後は熊本県の福祉課と相談し、救護施設に入所することになりました。
私は水俣病を背景に、鈴木さんのように最低限の生活が満たされていない人がいたことがショックでした。社会保障制度の弱さも感じないわけにいきません。 水俣病患者の救済運動は今も続いています。地域でいのちと暮らしを守る民医連の役割、患者の社会的背景を知ることの大切さもあらためて身に染みました。困 難な状態の人に出会い、手を差し伸べることができて嬉しく思っています。
(民医連新聞 第1491号 2011年1月3日)