聞かせて下さい あなたの人生 ひとり暮らし高齢者インタビュー 東京・中野共立病院
脱・無縁社会さぐる仲間たち
2010年は「所在不明高齢者」をはじめ「熱中症」「孤独死」など、高齢 者の孤立の問題が浮上しました。これは日々の医療・介護の中で、私たちも少なからず感じてきたこと。「なぜ高齢者は孤立するのか、その理由を探ろう」と、 独り暮らし高齢者のインタビューにとりくんでいる職員たちがいます。東京・中野共立病院の「独居高齢者の状態調査実行委員会」です。(木下直子記者)
一一月一四日の調査日に同行しました。朝九時、日曜日の病院に医師、看護師、事務職員など一五人が集合。実行委員会は、法人内で呼びかけ、集まった有志です。二、三人ずつに分かれ、自転車、徒歩などで患者さんのもとへ。
聴き取り対象は「独居」で「六〇~七〇代半ば」という条件に。行方不明高齢者の消息が途絶えた年齢だといわれているからです。
身近な独居高齢者の状態を知ること、孤独には貧困や失業といった生活と労働の歴史が関連していることを調査で確認すること、そして、結果を、孤立防止策の提言につなげてゆこうという目標でとりくみました。
手法は「状態調査」。生い立ちや仕事、独居に至る経緯、暮らしの現状などを、二時間以上かけて、じっくり聴いていきました。
貧困、疾病、生いたち聴く
午後、聴き取りを終えて戻り、話の特徴を出し合いました。
「幼いころに父親と死別。他家の養子になり、実母は再婚」「農家に生まれ、都会に稼ぎに出てまもなく両親が死去。弟たちを育てた」など“家族との死別” や“幼少期からの貧困”を経験していたり、「配偶者の借金や暴力から逃げたので、親族との連絡も絶っている」「一度嫁いだが離婚。同居していた姉が死去」 など、結婚が破綻し今に至っていたケースがありました。
また「一流企業勤めで結婚もしていたが、ケガで障害を負い、職も家族も失った」、「大型工事の技能者で海外の現場にもかり出されていたが、五〇代で仕事 がなくなった。転職直後に病気で働けなくなった」など、社会で活躍していたが、病気や障害をきっかけに、仕事や家族を失った人もいました。
孤立は自己責任ではない
「いまなぜ自分はひとり暮らしなのか」、病棟や外来ではわからなかった身の上が、患者さんから語られました。家族などの「血縁」の薄さは、ほとんどの人に共通。孤立は貧困や疾病などと関連し「自己責任」ではないと確認もできました。
◆
一方、連絡をとりあい行き来する友人・知人や、地域のつながりは、ほとんどの人にありました。
在宅医療や友の会など、民医連らしいネットワークがあって患者さんたちの命が守られていると、調査で感じた、という声も。
「苦労多い人生で、血縁に恵まれなくても、ご近所の『地縁』や、働いていたころの『社縁』にささえられていました。このつながりが今後一〇年先も失われないために何が必要か考えなければ」と、実行委員長の伊藤浩一医師(中野共立診療所・所長)。
実行委員会では 学習しながら調査を準備してきました。その中で中野区の独居高齢者向けの支援制度が驚くほど貧弱なことも判明。たとえば独居の命綱・緊急通報システムも、月三〇〇~六〇〇円の利用料を徴収している上、新規申し込みは受けていません。
「調査協力の御礼にお役立ち情報をあげよう」と、区発行の支援制度の案内パンフをとりよせたものの、対象を後期高齢者以上の年齢に限定したものばかりで、前期高齢者に役立ちそうなものはありません。「使えないね」と顔を見合わせたこともありました。
中野区の独居高齢者の出現率は三六%という高さだというのに(都下三位)、です。
「孤立」入り口に全世代に
「大都市ほど経済格差は拡大し、信頼に基づいた社会のつながりは断ち切られてゆく。孤立はそういう中で生まれます」と伊藤医師。「地域ネットワークが豊かだと教育にも健康にも効果あり、という研究報告もあります」。
高齢者の孤立問題は地域づくりの課題に直結しています。一一月の訪問後も、数人を調査し一二月現在で一〇人・のべ約二〇時間を超える聴き取りを重ね、三〇件をめざしています。
状態調査…対話型の聴き取り調査。生い立ちや経済状態、家族関係、趣味まで、相手に共感し、対話する中で深い思いが聴き取れる。 |
患者の声から提言つづける
中野共立病院では、これまでも、伊藤医師を先頭に、患者さんへの状態調査にとりくんできました。
〇五年には地域の保健師や学生たちの協力も得て「難病患者」調査を。報告書を出版し、当時東京都が難病患者の医療費助成を縮小したことに異議を唱えました。
〇九年は「一〇〇歳以上の患者調査」。共通していたのは、どの人も家族から宝物のように大事にされていたことや、戦争を生き延びたことなど。平和、経済 状態や人間関係のネットワークなど生きる基盤の充足が大事、と長寿の理由を探りながら「後期高齢者医療制度」がいかに高齢者を幸せにしないか、も指摘しま した。
◆
職種や経験も異なる実行委員は調査の感想をこう語りました。
病棟看護師の藤村真希子さんは中野共立病院に来る前に、大学病院での勤務経験があります。「大学病院でも在宅との医療連携はありました。でも、診療所や 在宅事業所、健康友の会、さらには患者さん同士の交流など、ささえの豊かさは、共立病院には及ばない」。一年目事務職員の粉川潔(ゆき)さんは「県連の研 修で、高齢化し限界集落と呼ばれる団地の高齢者を訪問しましたが、とにかく心細さを訴えていました。その点、中野の患者さんは明るかった。高齢者には楽し くすごしてほしい」
SWの飯島大樹さんは「ぼくらの役割は患者さんの思いの代弁です。ワーカーの立場から問題を社会に問いかけていかないと、とも思う」
気がかりなことも出ました。もっと多くの人から調査する予定でしたが、依頼段階で半数近くが「ひと様にできる話はない」と拒否したのです。「話せない人たちの方が問題を抱えている可能性が高い」と、事務の高村浩之さん。
二〇〇七年に全日本民医連が二万人の高齢者に行った自宅への訪問調査でも、五万人が訪問を拒否、この時も「拒否した人の困難」が指摘されています。
こんな話を聞きました
記者が同行したAさん(六〇代)は施設修理に来院したところ、脳梗塞で倒れ、そのまま入院した作業員でした。
東北の農家の長男で、子ども時代は野良仕事や弟たちの世話に追われました。中卒で故郷を出て、建設現場の日雇い、焼きイモ屋、金魚売りなど「いい仕事がある」と聞けば、とにかく働きました。
そんなAさんが二〇歳の時、母、父とあい次いで他界。小・中学生だった三人の弟たちを東京に呼び寄せ、養わねばならなくなりました。「兄弟は本当は九人いだの。小さいころ死んじゃった」
一家を案じ、弟の学校の担任が放課後よく立ち寄ってくれました。民生委員の助言で生活保護を受け、弟たちが就職してアパートを出るまで親代わりに。結局、結婚はしませんでした。
以後、兄弟や親戚ともつきあいはなし。実は弟二人は、三〇代と四〇代で死亡。二人とも警察からAさんに連絡が入り、火葬して故郷に連れ帰りました。「独 りで死んでたんだね。逆だよナ、この野郎。兄貴孝行もしねえで…」東北訛りで淡々と語りました。
残る一人の弟とは今回の入院がきっかけで数十年ぶりに再会。「『あなたがもし死んで、連絡先がないと困る』と、先生が言ってた。弟は嫁さんがいたよ。孫も連れて来た」。
退院後は、病院の系列診療所に通院しながらワンルームマンションにひとり暮らし。病院の庭の手入れのボランティアをしたり、仕事仲間との行き来も盛んです。
入院までは、会社の資材置き場のプレハブ小屋が住居でした。無年金なので、失業保険が切れた時点で生活保護を申請しました。
(民医連新聞 第1491号 2011年1月3日)