日韓の医療者「手をつなごう」 歴史に学び、健康な社会へ 「日韓併合」100年 平和と医療・福祉を学ぶ旅
2010年は、日本が朝鮮半島を植民地支配した「韓国併合」から100年の節目。全日本民医連では11月22~24日、韓国を訪 問し、戦争と平和を考える旅を実施しました。「ナヌムの家」では日本軍に「慰安婦」にされた韓国女性と懇談。西大門刑務所歴史館を見学し、日本が強制した 厳しい思想統制や過酷な拷問の実相を見ました。また、民医連と友好を深めるソウルの緑色病院を訪ね、職員と交流しました。職員など17人が参加し、学び考 えました。感想を紹介します。
「冬ソナ」と3・1独立運動
竹口知加世(福井・ケアマネジャー)
ツアー最終日、通訳の計らいで「冬ソナ」のロケ地へ。ぺ・ヨンジュンとチェ・ジウが通った「中央高等学校」です。いまだに校門の外に日本人観光客向けの韓流スターグッズの露店が出ていました。
そして、重厚な西洋建築の校舎と明らかに雰囲気が異なる伝統的建物が「三・一記念館」でした。ここで三・一独立運動を呼びかけるビラが印刷されたそうで す。結果、多くの学生が参加し、日本の植民地支配に反対する大運動になりました。
ここを訪れた多くの日本人のうち何人がこの建物に気づいただろうか、お互いの国の歴史的理解なしに本当の友好関係は築けない、との思いを抱いた印象深い場所でした。
「ナヌムの家」での痛み
星野剛志(東京・事務)
「ナヌムの家」を訪れ、ハルモニたちと面会しましたが、ただただ立ち尽くすばかりの私。一人のハルモニが優しくそんな私の手を握ってくれたことが忘れられません。
この日、新たに学んだ歴史のように、時に直視することが苦しく、痛みを伴う歴史もあると思います。しかし、現在の自分たちの立場からでなく、当時苦しん だ人びとの立場から歴史をとらえることが、未来における歴史の価値だと思うのです。
国境という枠を超え、憎しみを超えて、痛みを伴う事実をともに見つめる「同志」として、ハルモニは私の手を取ってくれたのだと思います。多くの人に、私 が感じたような痛みを感じてほしい、心からそう願います。日韓の真の友好関係はその痛みから生まれるのですから、きっと。
ハルモニの静かな微笑み
齋藤たか子(神奈川・事務)
「ナヌムの家」は、歴史の生き証人であるハルモニたちが今もたたかっている聖地です。私はここで初めて、「従軍慰安婦」自体が侮蔑的な日本側の言葉だと気づきました。
心と体に傷を受けたハルモニの静かに微笑む姿に涙が出そうになりました。でも、「どこから来たの?」と日本語で語りかけて握手をしてくれたハルモニに、 泣いては失礼と懸命に堪えました。歴史は真実を映す鏡。ハルモニたちの癒えることのない心を「ナヌムの家」は曇ることない真実で教えてくれました。
民医連の仲間だから
藤岡ひとみ(福井・看護師)
金浦空港に降りた時から、参加者みんなが昔からの友だちのようになっていきました。四日 間、食事と行動をともにした仲間。感動も怒りも、悲しむのも、笑う時もいっしょ。西大門刑務所歴史館やナヌムの家などさまざまな場所に行き、日本人が占領 下で韓国人に何をしたか深く知ることができました。
私は日常の忙しい現場に戻りました。ストレスを抱えていましたが、今回の旅を通じて、もう少し民医連でがんばってみるか、という気持ちになりました。全 国の仲間とこんな旅ができるのは民医連だから。知ったことを周囲の人に伝えていく義務も感じています。
近くて遠い国
横山隆(石川・医師)
韓国行きは三回目ですが、個人旅行では体験できない貴重な四日間でした。韓日関係の近代史上重要な場所を見、歴史を感じ取りました。
日韓条約で韓国は賠償請求権を放棄したとはいえ、日本政府の正式な謝罪がなされておらず、今も歴史歪曲が続いている現状です。何とかしなければならない という気持ちを強くしました。グリーン病院との交流では、韓国で唯一の民主的医療機関として、主として労働運動と連帯し奮闘している姿は、私たちの原点を 確認するという意味で、励まされました。今後も交流のパイプを太くしていきたいものです。
「閔妃(みんぴ)暗殺」の残虐さ
丹甫景子(北海道・内視鏡技師)
学校では教えられなかった内容を知り、驚きと怒りがこみあげました。その一つが「閔妃暗殺」です。
閔妃は朝鮮第二六代国王高宗の妃で、政治に積極的でした。日本と結託する急進開化派に対抗し、中国やロシアと結んで政権を奪い返し、日本の政策強要を拒 もうとしました。そのために日本軍が暗殺をくわだてたと言われます。
朝四時、日本兵らは景福宮に乱入し、女官などを次つぎに殺害し、死者の中に閔妃がいることを確かめ、石油をかけ遺体を焼きました。この一部始終を外国人 が見ており、世界に知れ渡り、隠せなくなりました。しかし、首謀者は形式的な裁判で「全員免訴」に。一国の王妃を惨殺するなど世界史に例がありません。
グリーン病院が生まれた理由
山田文葉(福井・介護職)
グリーン病院はレーヨン産業の職業病とのたたかいから生まれました。源進レーヨン(株)が日本の東レ(現在)から老朽化した機械を輸入し、有毒な二硫化炭素を発生させたのです。日本から韓国へ職業病が連鎖したことに驚き、悲しくなりました。
梁(ヤン)院長は「社会全体を見ないと医療はできない。権利としての医療を! そのための行動を!」と話しました。まるで民医連の学習会のようで、胸に 響きました。グリーン病院がとりくむ「健康防波堤」運動は、地域に出て自治体も協力する健康づくりです。賛同する職員が給料の一%を寄付するとのこと。学 びたい活動が一杯でした。
(民医連新聞 第1490号 2010年12月20日)