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民医連新聞

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東京で水俣病検診 全日本民医連・関東地協 症状をかかえて数十年 『やっぱり…』『補償してほしい』

 関東地方にも水俣病に苦しむ被害者が埋もれている―。東京・中野共立付属診療所で二月七日、二十数年ぶりに水俣病検診が行われました。東京や近県から受診した四九人(三五~七七歳)のうち四六人が、「水俣病」か「水俣病の疑い」との診断を受けました。(丸山聡子記者)

 検診は、水俣病不知火(しらぬい)患者会と全日本民医連の関東地協が実施しました。水俣病に詳しい熊本民医連の医師二人と職員のほか、関東地協の医師一〇人と看護師など、七〇人以上の職員が参加しました。

息子への影響不安

 都内に住む女性(七〇)は、一九歳のときに故郷の天草を出て上京。子どもを産み育てました。東京に来てからも、故郷の親が送ってくれる魚を食べていました。
 女性は「いつも足が焼けたような感じでしびれて痛い」と訴えました。診察で、医師が足首から先を痛覚針で刺したり筆でさわったりしても、その感覚はほとんどわかりません。
 絶えず痛む足。「切ってしまいたい。切れば痛みを感じないのでは」とさえ思います。複数の病院やハリ治療に通い、「水俣病かもしれない」と医師に伝えて も、返ってくるのは「水俣病は私にはわからない」「一生つきあっていくしかないですね」などの言葉でした。
 「情報がなく、頼れるところがなかった。同じように苦しんでいた姉は、思い詰めて六〇代で自殺しました。息子にも影響があるのではと不安ですが、お嫁さ んに申し訳なくて言い出せない。東京でも診てくれる先生がいれば」。
 都内で四〇年間、飲食店を営んでいる鶴岡しをりさん(六〇)は、八歳まで不知火海に面する天草諸島・御所浦島で育ちました。一家で島を出ましたが、高校 生のころまで毎年夏休みは島で過ごしました。「水俣で怖い病気が出たとは聞いたけど、天草まで危ないとは思わなかった。そのころ、海に魚がたくさん浮いて いた。浮いたフグの口から空気を吹き込んでふくらまして遊んだこともある」と話します。「網元だった実家の祖母は、今思うと水俣病だった。手足のしびれが ひどく、ふらついていた」と鶴岡さん。祖母は子や孫の将来を心配したのか、「そがん病気じゃなか。病院には行かんちゃよか」と言って聞かなかったそうで す。
 「自分が水俣病とは思っていなかった」鶴岡さん。昨年九月、在京のおじが故郷で検診を受け、「水俣病」と診断されたと聞き、「もしかして自分も」と考え るようになりました。以前から箸をよく落としたり、つまずきやすく、気になっていたからです。「しっかり調査をしてほしいし、水俣病であるならきちんと補 償してほしい」。
 昨年の水俣病大検診にも参加した看護師・蓮場都美子さん(東京・みさと協立病院)は、「患者さんの苦しみを聞くたび、今まで知らなかったことを申し訳なく思います。経験を積んで少しでも役に立ちたい」と言います。

医学生も「生きた学習」

 検診には医学生一〇人も参加しました。東京医科歯科大学四年の阿久津智洋さんは、「七〇代の人 が一〇代からこむらがえりに苦しみ、三〇代から手足のしびれやつまずきやすかったと聞き、水俣病は過去の問題という認識がガラッと変わった。なかなかでき ない経験」と言います。「公害病」という漠然としたものが、直に患者に触れることで「メチル水銀中毒」による「神経疾患」の実感がわかったと阿久津さん。 「実態を知っていれば、今後、診察の現場で気をつけて診断したり、必要な情報提供をできるのでは」と話していました。
 受診者からは、「認定申請するには、水俣に戻って受診しなければと思っていた。近くで受けられて助かる」との声も出され、中には入院先の病院から「外出」許可を得て受診した人もいました。

まだまだ被害が…

 水俣病の公式発見は一九五六年。チッソは、六八年まで有害な廃水を流し続けました。受診者の多くは、幼少期や青年期に、汚染がひどい不知火海沿岸で魚を多食していました。就職などを機に上京し、四〇~五〇年が経っています。
 検診後の記者会見で東京・王子生協病院の今泉貴雄医師は、「昨年の大検診に関東からも受診者があり、民医連の病院に問い合わせが続いていた。今回、予想 を上回る申し込みがあり、診察できなかった人もいるため、四月に再度行いたい」と表明しました。熊本・協立クリニック院長の高岡滋医師は、「行政は、汚染 地域を出ていった人に対しても、周知や救済などの責任を果たすべきだ」と訴えました。
 今回受診した人を含む関東地方の患者二三人は二月二三日、ノーモア・ミナマタ東京原告団として、国と県、チッソを相手取り、東京地裁に提訴しました。

(民医連新聞 第1471号 2010年3月1日)