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民医連新聞

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駆け歩きレポート(33) 3年目職員が学ぶ 新潟水俣病 患者の苦しみ受けとめ「訴訟を支援したい」 新潟民医連

 新潟民医連では新潟水俣病をテーマに七月一四日、三年目職員の研修を行いました。水俣病のとりくみは同県連の原点の一つ、綱領改定議論を深める上で不可欠です。現地調査や患者会との懇談に同行しました。(村田洋一記者)

 新潟駅に集合した二五人はマイクロバスに乗り、阿賀野(あがの)川上流の鹿瀬(かのせ)地域へ 出発。アセトアルデヒドを生産していた旧昭和電工鹿瀬工場がメチル水銀を含む廃液を川に流したところです。バスの中では「新潟水俣病」のビデオを観て沼垂 (ぬったり)診療所事務長の小市信さんから説明を受け事前学習です。
 全長二一〇km、水量の豊かな川です。川には工場の排水口が当時のままに残っています。沿岸で獲れた魚を食べた住民が発病し、漁業は深刻な打撃を受けま した。患者会の人が「子どものころ遊んだ」という場所も見ました。
 次に水俣病資料館へ。見学後は、館内の研修室でグループワークです。五班に分かれ、患者会の語り部から聞き取りました。(1)水俣病の症状、(2)当時 の生活や状況、(3)なぜ裁判に訴えたか、(4)昭和電工や国、自治体への要望、(5)阿賀野患者会のこと、(6)支援活動への要望など、話がすすむにつ れ、やり取りが真剣になってきました。

私も「隠れ患者」だった

 患者会の副会長の山田サチ子さんは質問にていねいに答えました。生い立ちや家族のこと、二〇代 で入院し、多発性慢性関節リウマチと診断されたが、痛みは消えず四〇代半ばになって「リウマチではない」と言われたこと。夫の転勤で故郷を離れ、水俣病に ついてほとんど知らなかったこと…。
 「二〇〇七年まで自分は水俣病だと思っていなかった。テレビで沼垂診療所の関川智子所長が『隠れ患者がいるはず』と言っていたのを聞いた。ショックだっ た。両親が認定患者だったが、弟が医療手帳を持っていたのを知ったのは葬儀の時だった。診療所に予約し、初診で旧姓を言ったら、関川医師は両親も弟のこと も知っていた。若いときからの病気や体調不良の原因は水俣病のせいだった。知らないって恐ろしいと思った」。
 「患者会に入って学習し、加害企業・昭和電工の仕打ちに怒りを覚えた。私は、まだ水俣病だと知らずに苦しんでいる人、隠れている患者に実態を伝えたい。 国が熊本でしっかり対策を講じていれば新潟の被害はもっと軽かったはず。被害者全員を救済してほしい。私は患者会に入って生まれ直したようだ。七〇歳を過 ぎて初めて政治に対する批判の目を持つようになった」と語りました。
 一時間があっという間に過ぎ、話が尽きないグループも。最後に語り部を代表して山田さんが「若い人が真剣に話を聞いてくれて嬉しかった」とお礼をのべました。
 各グループから報告しました。「現地見学と被害者の話から問題意識が深まった」「食生活のもとが汚染されるのは怖い」「差別の実態が理解できた」「今後 も学習会に参加し、後輩に伝え、家族にも話し、署名活動もやっていきたい」などが出されました。職員の心に刻まれたものは大きかったようです。

熊本と新潟と手を組んで

 新潟水俣病の公表は一九六五年。被害者は六七年、日本初の公害裁判をたたかい、補償を勝ち取り ました。第二次訴訟も九五年に勝利和解。しかし、埋もれている患者はまだ多数おり、熊本水俣病関西訴訟最高裁判決(〇四年)を機に救済を求める声があが り、熊本は三万人を超え、新潟は三〇〇人を超えています。国の「認定制度」によって多くの被害者が切り捨てられています。
 沼垂診療所の患者などがつくる阿賀野患者会は「全被害者の救済には昭和電工と国を相手に裁判で勝利するしかない」と一月の臨時総会で決定。六月一二日に 会員一〇二人中二七人(第一陣)が「ノーモア・ミナマタ 新潟全被害者救済訴訟」を提訴。熊本の患者と連帯して、国の政策をくつがえしたいと決意を固めて います。

水俣環境委員会ひらく

 この日の夜、県連の水俣環境問題委員会が開かれ、三年目研修のようすも報告、今後の運動や訴訟、職員の協力などを検討しました。「綱領改定の論議と県連の原点ともいえる新潟水俣病を結びつけていこう」と話し合いました。

(民医連新聞 第1458号 2009年8月17日)