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民医連新聞

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あきらめない看護 寝たきりだった青年が歩いて退院できた 東京・みさと健和病院 川上貴子(看護師)

 昨年、石川・城北病院の「人情病院」が放映され、DVDにもなって大きな感動を呼びました。最期まで患者に寄り添い、思いに応える職員、それをささえる共同組織の姿です。
 昨年九月に行われた全日本民医連・看護介護活動交流研究集会でも、全国から同様なドラマがたくさん報告されました。今回、そのいくつかを紹介します。

 交通事故で脳挫傷、外傷性クモ膜下出血を起こした和男さん(三三・仮名)は、遷延性意識障害で寝たきり状態のまま、当院に転院してきました。〇七年七月のことでした。前の病院では「快復は望めない」と言われていました。
 私たちはすぐ、遷延性意識障害によいとされるケアを取り入れ、一〇カ月後には、歩いて退院するまでに快復しました。この「あきらめない看護」の結果に、私たち自身も元気になりました。

寝たきりから座位に

 和男さんは放射線技師で、両親との三人家族です。母はずっと付き添い、手足や背中をさすっていました。私たち職員も働く仲間としてみんなで関わりました。
 和男さんは転院してきた時、気管切開、胃瘻(ろう)造設の状態で、高熱も続いていました。
 しかし転院後三日目で、ウソのように熱が下がり、腹臥位(ふくがい)療法を開始することができました。
 翌月になって、車イスの訓練を始めると、マイナスだった嚥下(えんげ)反射が出るようになりました。日中できるだけ座位で過ごしてもらい、積極的に声をかけ、下旬には指でOKサインを出すようになりました。
 そのころから臥床中の四肢の動きが活発になり、毎日の変化は驚きの連続でした。初めてジャンケンができ、ペンを持たせると、何かを書こうとしました。
 九月に入ると、寝返りができ、四肢も目的に向かって動くようになり、気管チューブを抜くアクシデントも起こりました。
 座位バランスがよくなり、腹臥位でも涎(よだれ)が出なくなりました。嚥下訓練もすすみ、普通食になりました。経管栄養の指導を受けていた母も安堵しました。

介護者の母ががんに

 ところが喜びも束の間、母にがんが見つかりました。しかも肝臓、膵臓、肺のがんでした。
 一〇月初め、スピーチカニューレに交換。最初の言葉が「しゃべりたい」でした。
 でも、自分の名前は言えても、ほかの記憶がなかなか戻らず、毎日「あなた誰ですか」など同じことを聞く、くり返しでした。
 その後、テレビゲームをし、音楽を聴き、車イスで自由に動けるようになりました。足の運びから歩行への希望が見えてきました。私たちは、歯みがき、洗面、ズボンの上げ下げなどの訓練をくり返しました。
 歩行訓練は、バランスボールやトランポリンを使い楽しくすすめました。腰回りが柔らかくなり、足の運びがよくなり、ささえがあれば一〇歩ほど歩けました。
 音楽が好きでCDをよく聴いていましたが、ある日、歌のサビの部分で急に泣き出し、その後、歌うようになりました。表情も豊かに、明るくなりました。

母の待つ自宅へ

 退院準備のため、外出練習を始めました。母のためにも私たちは急ぎました。このころはまだ失禁が続いていました。
 和男さんの自己主張が増え、「家に帰る」ばかり言い、どなったり訓練を拒否することもありました。病状が悪い母との面会が減り、不安なのかと考え、手紙 を書くようすすめました。たどたどしくても文字はしっかりし、漢字も使えました。
 そして翌五月に退院。母が亡くなるまで約一カ月、家族で過ごしました。母は「息子が背中をさすってくれ、自分も息子の背中にアトピーの軟膏を塗ってあげる。とてもいい時間」と話していました。

看護はすばらしい

 和男さんは母を看取りましたが、駆けつけた私に「なんで泣いてるの。僕がよしよししてあげる」と言い、私の頭をなでました。
 いまは悲しむ気持ちが出てきたそうです。母は「息子の快復過程を医療や看護に役立ててほしい。息子には就職してほしい」と願っていました。就職はまだ叶 いませんが、私たちは、和男さんの事例から看護の素晴らしさと楽しさを伝えたいと思います。

(民医連新聞 第1443号 2009年1月5日)