9条は宝 発言(31) 戦争の反省から生まれた 9条にこだわりたい
日本国憲法が公布されて六一年。「戦中・戦後を生き抜いた自分にできることは何か」と問い続ける飯島登さん。東京・中野共立友の会の仲間とともにユニークな「九条の会」活動をしています。
発足式はゴロ合わせ
私たちの「会」は通称「九条の和」といいます。九条を守る和を広げたいと、共同組織の仲間と決めました。
発足式は〇五年五月三日。宮(きゅう)城(じょう)前広場でやりました。一九四八年まで皇居は宮(きゅう)城(じょう)と呼ばれていました。今では笑い 話ですが、案内状を配ると、数人から「宮(みや)城(ぎ)までは行けない」と言われました。
スタートはゴロ合わせで「九」にこだわりました。三〇数人でベートーベンの第九「歓びの歌」を歌い、憲法手帳を配って九条と前文を読み合わせました。九 九条「憲法尊重擁護の義務」の遵守を求め、会費を九九円に決めました。
記念写真を撮ろうとしたら、環境省の役人がやってきて「撮影はダメ」といいました。地方や海外から観光に来ている人たちには何も言わず、横断幕をもって 撮影をしようとした私たちにだけ。「憲法を守ろう」と声を出している私たちが、何か騒動でも起こすとでも思ったのでしょうか。
私はこんなこともあろうかと、天皇がその年の歌会始めで読んだ歌を画用紙に書いて持っていました。
「戦なき世を歩みきて 思い出づ かの難(かた)き日を 生きし人びと」
六〇年たって思い出すのは、あの困難な日を生きてきた人びとだ、という意味です。それを見せると環境省は何も言わず、すごすごと退散していきました。
これが軍隊か…
私は戦争を体験した人間です。終戦のとき、二〇歳でした。
それまで「天皇陛下のために命を投げ出そう」、そんな軍国少年として育ちました。食べる物もなく、中学をやめ一五歳から働き、率先して海軍の予科練に志 願しました。しかし、身長が一五〇センチメートルだった。予科練は一五七㎝ないとダメだったのです。その後、召集令状が来て終戦までの四カ月間、海軍の二 等水兵になりました。
軍隊に入って分かったことは、戦争は人間を人間として扱わないこと。すぐ殴る。牛革でできたスリッパで何発も。気絶するとバケツの水をぶっかけられて、 無理やり立ち上がらされ、次はバットで尻を殴られる。一発でぶったおれました。それをかばうと、そいつも殴られる。「これが軍隊か、これが戦争か」と…。 そんな毎日でした。
だから戦争が終わったときは、飛び上がって喜びました。これで自由に食べられる、もう兵隊にとられないですむ、と。すごくうれしかった。
私にとって八月一五日は、二つ目の誕生日のようなものです。
終戦で開けた未来
新憲法が公布された一九四六年一一月三日、今の皇居前で都民祝賀大会がありました。たくさんの人が広場に集まり、私も参加しました。「日本は戦争しない国になるのだ、軍隊をもたない国になるのだ」と、みんなで喜びましたよ。
敗戦の明くる年だから、みんなボロの服や帽子、靴でしたけど心は晴れやかでした。二一歳の私は、自分の人生と日本の未来を重ね合わせましたね。
だから、あの喜びは忘れられない。八二歳の私ができることは、あの非人道的な行為を二度と繰り返させないように九条にこだわって、声をあげることだと思うのです。
憲法は国民のもの
日本政府は、敗戦から今日までの流れをひっくり返そうとしています。後戻りは絶対にさせません。二千万人もの死者を出し、多大な被害を中国をはじめアジア に与えて、日本国民にも大きな犠牲を強いた反省から生まれた九条なんですから。
私が学校に通っていたころ、アジアやアフリカの国ぐには、ほとんどが植民地で、世界地図は支配している国の色に塗りつぶされていました。第二次大戦後、 それぞれが独立を果たし、今の地図には植民地は見あたりません。私は、人類の歴史は間違いなく前にすすむのだと信じています。
憲法は国民のものです。変えるか変えないかも主権者である国民が決めるのです。国民投票が実施されないように、がんばって九条の和を広げます。
飯島 登さん(82)
1925年生まれ、東京都中野区在住。中野共立友の会「9条の和」発起人。夫婦で鶏肉屋を44年間経営。中野共立友の会会長を5年間務めた。現在は役員
(民医連新聞 第1416号 2007年11月19日)