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民医連新聞

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22年ぶり水俣病認定に勇気 新たな患者会できる 患者ささえ続ける 新潟民医連

 水俣病に対する、国と企業の責任を認めた関西訴訟最高裁判決(二〇〇四年一〇月)。国のきび しい認定基準も不当と判断しました。新潟でも新たな動きがはじまっています。三月に二二年ぶりに二人の患者が水俣病と認定され、六月には新たな患者会がで きました。そこには、被害者をささえ続ける新潟民医連の姿があります。(川村淳二記者)

6年の努力で水俣病認定

 「足が地につく感覚がなくて、転んでばかりいる」。そう話す中村五三吉(ごさきち)さん(68)は、三月に新潟水俣病と認定されました。二〇〇〇年一二月に認定申請しましたが却下。不服を申し立て、ようやく昨年五月に却下が取り消され、再審査で認定されました。
 同じく認定された兄の今井芳夫さん(70)は、「生きているうちに認定してくれんかね」と言い残し、昨年亡くなりました。
 「患者がいる間は、水俣病は終わらない。あとの人のため、顔も名前も出してたたかってきた」と中村さんは話します。
 主治医の関川智子・沼垂(ぬったり)診療所所長は、〇四年一二月からはじまった不服審査会で意見陳述し、認定のため尽力してきました。

支援から共闘へ

 関川医師が水俣病を診察するようになったのは一九七三年から。昭和電工と補償協定が結ばれ、申請希望者が急増した時期です。
 「はじめは、水俣病の最終診断は認定審査会がするものと考え、棄却になっても、『時期が悪かった』と、無責任な説明をしていた」という関川医師。そんな 時、ある弁護士から、「医師は、自分の診断が違うといわれても腹が立たないのか」と問われ、衝撃を受けました。
 「その時から変わりました。診断の正当性を認めさせるため、裁判にも積極的になりました。支援ではなく共闘の立場になりました」と関川医師。原告患者が 症状で苦しみ、引け目を感じて生活している姿が分かるにつれ、「まぎれもなく水俣病」と、確信しました。裁判では原告患者とすでに認定された患者の所見 に、違いがないことを明らかにしました。

新たな患者の発見

 新潟民医連は〇五年夏から、新たな患者の発見と申請援助にとりくみはじめました。
 まず、新潟民医連が関わっている認定患者ら一二〇人の家族に手紙を出し、受診相談会を開きました。また阿賀野川流域の二一〇〇世帯を、のべ一三三人の職員で訪問し、水俣病の症状や申請方法を知らせました。
 これまで熊本の中山裕二・水俣病被害者の会全国連絡会事務局長、高岡滋・協立クリニック所長(水俣協立病院元院長)を招き、検診や申請運動をすすめる上でのアドバイスをもらいました。
 患者は周りに秘密にしていて、孤立しがちです。申請している患者に呼びかけ、学習・交流会も開きました。回を重ねるうち、「与党が新たに出す救済策の評価や対応も課題。患者会が必要」との声があがりました。

差別や偏見なくしたい

 六月二三日、「新潟水俣病阿賀野患者会」の結成総会が開かれました。熊本の「水俣病不知火患者会」から連帯のあいさつも届き、患者会は五〇~八〇代の四七人で発足しました。
 「一九七〇年ごろ、住民検診に誘われたが仕事で行けなかった。水俣病と分かったら、結婚できないという偏見もあった。今も水俣病の診察を受けるだけで、 周囲から『金目当て』などと言われる。水俣病から偏見や差別をなくしたい」と、会長(65)はいいます。
 関西訴訟判決が出てから、新潟の認定申請者は二二人、保健手帳の申請は一三六人に(うち新潟民医連が関わっている人は認定申請者一二人、保健手帳申請者五三人)。
 総会後、記者会見で関川医師は「私たちが知らない、まだ多くいる申請中の患者にも加入してほしい」と、多くいるであろう被害者に強く呼びかけました。


 

新潟水俣病

 1965年5月に公式確認。阿賀野川の上流にあった昭和電工鹿瀬工場が、メチル水銀を垂れ流したことが原因。
 新潟勤労者医療協会は、住民検診で患者を発見し、認定運動をいち早くすすめ、1967年の新潟水俣病・第1次訴訟は、公害裁判の先駆けとなりました。住 民いっせい検診という新潟のとりくみは、熊本の活動に影響を与えました。

(民医連新聞 第1408号 2007年7月16日)