ヒロシマを原点に平和ちかう 第7回平和活動交流集会
「戦争できる国づくりは許さない。各県の平和のとりくみを交流し、運動を強めよう」と全日本民医連は五月一一~一三日、広島で「第七回平和活動交流集会」を開き、三五県連から一〇〇人以上が集まりました。
平和・医療・福祉大切にする未来へ
田代博・反核平和委員長が「戦争はいのちを最も粗末にする行為。過去の歴史をふり返り、平和と憲法を守り、医療と福祉が大切にされる未来へ。国民と力を合わせよう」と基調報告をしました。
広島被団協事務局長の吉岡幸雄さんが被爆体験を語りました。「多くの被爆者はいまも人権を失ったまま。原爆症認定訴訟を前進させたい」と協力を訴えました。
ジャーナリストの堤未果さんが記念講演(別項)。また、二日目のフィールドワークに備え、岩国の米軍基地問題について、岩国平和委員会事務局長の吉岡光則さんが解説しました。
「原爆」の文字がない
午前中はフィールドワーク。一〇班に分れ「原爆碑めぐり」をしました。案内は被団協の語り部 と、広島民医連の青年ピースナビゲーターです。参加者は、記念碑の一つひとつに込められた苦しみや願いの説明を受けました。また、アメリカが原爆の悲惨さ を隠すため、碑に「原爆」の文字を入れることを禁止したことも知りました。
かつて軍都いまも基地
午後は岩国基地周辺へ。
広島は平和都市である一方、自衛隊基地や米軍基地が点在し、島じまは弾薬庫として使用されています。基地には、護衛艦や潜水艦が何隻も停泊していました。
フェリーからバスに乗り換え、広大な米軍基地の周囲を回りました。思いやり予算でつくられた立派なマンションや施設が並び、参加者から憤りの声があがりました。
夜の交流会では、各地のとりくみを紹介し合いました(別項)。
最終日は、各班ごとに感想と経験交流をしました。「戦後、原爆ドームをとり壊そうという動きがあったとき、目に見えるものを残したい、と保存運動をした 話が印象的だった」、「私たちは直接、被爆者から話を聞ける最後の世代」など、感想が出されました。
最後に、田代委員長が「各地の創意あふれるとりくみを学び合い、平和学校を成功させ、平和アクションプランをすすめよう」と呼びかけ、確認しました。
ピースナビは広島の青年職員
ピースナビゲーターが大活躍しました。広島民医連の青年職員のJB実行委員が中心です。ナビの練習をして臨みました。語り部さんから説明を聴き、自分で実際にガイドをしてみて、アドバイスを受け、本番に備えました。
ナビゲーターの一人、皆川大樹さん(広島共立病院)は「できるだけ自分の言葉で語ろう、と仲間と話しています。被爆体験談や資料を参考に、案内します」と話しました。
平和公園は、昔から公園だったのではなく、前は中心街でした。爆心直下にあるこの公園で、多数の人が亡くなりました。ただ一人、生き残った人がいたレス トハウスの地下室が残っています。皆川さんは、参加者を案内しながら、「核競争や劣化ウラン弾など、被爆はまだ終わっていないことを知ってほしい」と話し ました。
参加者は、若い職員のナビゲーターの知識に感心し、「強制徴用された韓国・朝鮮の人が二万人以上も亡くなったことを初めて知った。日本は被害者であり、加害者でもあると痛感した」と話しました。
仲間をひろげ行動する 各地のとりくみ報告
隔月でひらく平和交流 毎年「平和の夕べ」 沖縄で平和学校 平和学校の卒業制作 新入職員が基地めぐり 基地・戦跡めぐるサークル 被爆体験聞き取り 組合員さんの戦争体験集 中堅研修に平和課題 平和連絡センター再建 初のピーチャリ |
ジャーナリスト
堤 未果さんが講演(平和活動交流集会で)
いつも戦争している国アメリカ
テロ、銃、軍隊リクルーター
私は「自由なアメリカ」に憧れ、高校卒業後、留学し、証券会社に勤めていました。
二〇〇一年九月一一日、オフィスの隣のワールドトレードセンターに飛行機が衝突しました。「事故かな?」と話しているうち、もう一機が衝突しました。オ フィスのテレビには「警戒警報」の文字が。「テロだ!」とあわてて、避難しました。
それから一年間は、飛行機を見ると体が熱くなり、サイレンが聞こえる気がしました。PTSD(心的外傷後ストレス障害)になってしまったのです。
戦争があおられる怖さ
何より怖かったのは、テロ後のアメリカ社会の変貌ぶりです。どのチャンネルも「ビルが崩れ、 ブッシュ大統領が『アメリカは負けない』とこぶしを上げ、星条旗がなびき、マーチが流れる」映像を何度も流しました。「話し合いでは解決できない。やられ る前にやらなければ」とあおりました。
多くの人、特に主婦が「自分で身を守らねば」と、マーケットに銃を買いに走りました。アメリカには二億五〇〇〇万丁の銃があり、一日平均で一三人の子どもたちが銃の犠牲になっています。
私がいたニューヨークには、たくさんの人種や民族の人たちがいました。その中にも「反対するなら、お前も敵だ」と「愛国心」を合言葉にした「ゆがんだ団 結」が生まれました。アフガニスタン・イラク侵攻に大きな反対もなく、アメリカは暴走しました。
兵士にされる若者たち
アメリカではテロの翌年、「落ちこぼれゼロ法」を制定しました。政府が教育に介入する法律です。全国学力一斉テストを義務化し、成績が悪い学校は予算削減・廃校になります。日本の教育「改正」に似ています。
この法律には大きな問題があります。「生徒の個人情報を軍に提供すること」という一文です。個人情報には、家庭環境や生徒の携帯電話の番号も含まれます。
拒否すれば予算がゼロになるため、貧しい公立学校は拒否できません。生徒の情報は「バックドアドラフト(裏口徴兵制度)」に使われます。
家庭環境の貧しい生徒をリストアップし、研修を積んだ軍のリクルーターが「君は将来、何になりたいの? 相談に乗るよ」と携帯に電話し、会いに来ます。 さわやかな笑顔で「大学進学の費用を軍が負担する。家族も病院が無料で使える。戦場に行くのは数%」と甘い言葉で勧誘、入隊させます。しかし一度入ると、 貧困家庭の子どもたちは真っ先に最前線に送られます。
「戦争しているのに、子どもを軍隊に出すって、どう?」と親に聞くと、ほとんど「兵士がそんなに死んでいるの?」、「独裁者から解放する、いい戦争で しょ」と。情報はテレビか教会でしか得られず、メディアは米軍の「格好いい姿」しか報道していません。
米兵が死んでいることも知らない。無関心ではなく、真実を知らされていないアメリカの姿です。
世界は日本に注目
日本では、「九条を変えよう、自衛隊を派遣しよう」という議論をしています。
通訳の仕事で、イラクから来た医師たちと会いました。彼らは、「日本は被爆医療がすすんでいるはず。自衛隊ではなく、医師を派遣して。私たちに治療法を 教えてほしい。日本には、私たちがノドから手が出るぐらいほしい憲法九条もある」と語りました。
次に会った「九・一一テロ」遺族たちは「遺族の名前でこれ以上、殺戮(さつりく)をくり返さないでほしい。同盟国の日本の首相からビシッと言ってほしい。戦争を止めてほしい」と訴えました。
「自分だけは安全」、漠然とそう思っていました。なぜなのか、を考えると、日本に生まれ、憲法九条があり、平和が保障されていたからでした。
九条を考えるチャンス
いま世界では、憲法九条が注目され、尊敬されています。武器を持たず、お互いの違いを尊重し、手をつなぐこと。戦争をなくそうと声を上げる人も増えています。
国民投票法案が通ってしまいました。しかし、憲法の重要性を考え、民主主義を成熟させるいい機会です。「日本はもうだめになった」と悲観している時間はありません。
(民医連新聞 第1405号 2007年6月4日)