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民医連新聞

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9条は宝 発言(23) 自分が味わった戦争知らせ 人として反対する

 永山素男医師が、故・笹沼籐(とう)太郎さんの戦争体験を聴きとってまとめた「友の会ニュース」の連載は、地域で反響を呼び、パ ンフレット『ノモンハン事件と私の軍隊生活』になりました。東京・ひこばえ会の副理事長と友の会会長という間柄だった二人は、ともに満州でつらい体験を し、人として戦争は許せないとの思いを持っていました。

身近な人の体験をパンフに

 私が満州の長春(ちょうしゅん)に小学生までいたことを笹沼さんに話すと、軍隊時代の話をして くれました。負け戦のため、記録があまり残っていないノモンハン事件の体験でした。身近な人がそんな体験をしていることは驚きでした。ぜひいろんな人にも 聞かせたいと、記録に残すことにしました。
 敵の戦車砲でこなごなに吹き飛び、死んでいく戦友。証言はたいへん詳細で、なまなましいものでした。八〇歳を超える高齢にもかかわらず、三~四時間ぶっ 通しで話してくれました。証言の最後に、「私はたまたま助かったから話ができる。戦争で生き残った人も、死んでしまった人も、何の得もなかった。戦争が終 わって初めてマインドコントロールが解け、新しい生き方をはじめた」と、話していました。
 若い人に戦争のむなしさや、日本軍がしたひどい行為を知ってほしい。何も知らないままで、憲法改正の是非を判断しないでほしいと思います。

死を無感覚にする戦争

 私がこうした活動をしている背景には二つあります。
 一つは戦争での難民の体験です。父が医師だったため、中国の要請で一九四七年まで留用され、そこで軍隊の姿を目にしました。ソ連軍は略奪や強姦をいたるところでやっていました。
 家のそばでは中国の国府軍と解放軍が市街戦をしていました。双方の弾が家に何百発も当たりましたが、鉄筋コンクリートだったので死なないですんだので す。感覚が麻痺し、「ヒュープシュン」と近くの立木に弾が当たる音にも、死体があちこちに転がっていても、何も感じない状態でした。
 私が帰国した年の秋には、長春が解放軍に半年以上包囲され、日本人も中国人も相当餓死しました。同級生も死にました。戦争は国民全部を危険にさらすと、身にしみました。
 もう一つが原爆です。もともと家族は長崎出身でしたので、日本に残っていた兄と祖母を、原爆で亡くしました。

日本が満州でしたこと

 「日本人が満州でいいことをやったというのは嘘だよな」と、小学校の同級生と話します。子ども でしたので、直接何か悪いことをしたわけではありませんが、父親が役人だった同級生は、今でも長春には行きたくないといいます。首相の従軍慰安婦を否定す る発言などを聞くと、「何いってんだ!」と憤りを感じます。戦争で私たちは苦労しましたが、現地の人は日本により抑圧され、もっとたいへんでした。
 「満人」は差別され、日本人と生活格差がはっきりありました。教育も受けられず、ボロボロの身なりで、肉体労働をさせられていました。日本人用の市電に 「満人」が乗ってくると、中学生が大の大人を蹴飛ばして追い出すのです。だから、満州にいたころは、日本人が肉体労働をするとは思わなかったし、子どもの 目には、「満人」は下等民族にしか見えませんでした。かいらい国家の実態が、子どもの心にこのような考えを植えつけたのです。

『あたらしい憲法のはなし』

 日本国憲法が発布されたときは、中国の日本人学校で教育を受けました。帰国して中学校に入った 時の教科書が、有名な『あたらしい憲法のはなし』でした。上の世代は、世間の価値観が突然転換したので悩んだかもしれませんが、私は子どもでしたので、素 直に日本国憲法の価値観を受け入れました。
 大学生のころは、戦争や平和にすごく敏感でした。鳩山内閣が小選挙区制を導入しようとした時も「軍隊をつくるための憲法改正だ」と、大学の中でごく自然に反対運動が起こりました。
 でも今は、国民の「戦争はいやだ!」との思いが、政権選択と直結しない。わかりにくくなっていることに、いらだちを覚えます。

(民医連新聞 第1400号 2007年3月19日)