9条は宝 発言(21)いのちを守る専門家の責任を果たすために
愛育病院の元院長で産婦人科医の堀口貞夫さんは、「千代田九条の会」の呼びかけ人です。妻の堀口雅子さんも産婦人科医で、「九条 の会・医療者の会」の呼びかけ人。ともに、〝人間と性〟教育研究所の研究員として性教育にも積極的に関わり、男女共同参画社会と平和のために奮闘していま す。
憲法九条の存在が紛争を武力で解決しようと手軽に考えることを止めていたのだと思います。武力 を使わないためにもっと知恵を使い、努力することが必要です。終戦の時、私は中学一年でしたので、戦中戦後のことはよく覚えています。戦争がどんな結果を 生むかをよく知っているので、「千代田九条の会」の呼びかけ人になりました。
空襲の中、 必死で逃げた戦中
小学校の時は、元下士官の先生が受け持ちで、自分の経験や、「日本はアジア解放のために戦って いるアジアの盟主だ」などと教えていました。戦争映画は格好いいので、兵隊にあこがれ、早く予科練に行って空中戦をやれるようになりたい、戦争にはいつか は勝つもの、と思っていました。
当時は、祖母と両親、姉弟の六人で横浜駅の近くに住んでいました。父は産婦人科の開業医で、学生時代に左肘を脱臼していたので、軍医として召集されることを免れていました。
中学に入ってすぐの五月一〇日、横浜は大空襲を受けました。登校時に警戒警報が鳴り、急いで家に戻って防空壕に入りました。姉(一七歳)は勤労動員で横 浜の山手にあった海軍の印刷所に、父は「患者さんを守る」と、一人で診療所に向かって行きました。
第一弾は横浜駅の裏側に落ちたと思います。家には母と私と弟(七歳)の三人がいましたが、火の海で逃げ道がありません。近くの電話局のビルにやっとのこ とで逃げ込みました。電話局の周りは燃えないよう「建物疎開」され、空き地になっていたため助かりました。火が静まってから、焼けずに残っていた青年学校 へ避難しました。グランドを通る時、太い棒のようなものが落ちていました。蹴飛ばそうと思いましたが、なんとなくやめて、またぎました。なんとそれは焼夷 弾の不発弾でした。危機一髪でした。
翌朝、姉も無事に戻り青年学校で家族全員が落ち合うことができました。本当に運がよかったと思います。
空襲で住むところも診療所も焼けてしまったので、親戚が疎開していた九州の山間部に疎開しました。お金も何もなく、空襲がなくても生きることで精一杯で した。中学に転校した直後に終戦となりました。やっと緊張感がとれたのをよく覚えています。
産婦人科医を志した戦後
両親が苦労して生活するめどをつけ、一年数カ月後には、九州から横浜に戻ることができました。中学校では、戦争の報道には嘘があることを教えられました。
産婦人科医になろうと思ったのは高校生のころで父の影響もありました。お産の大変さを楽にしてあげたいとの思いもありました。
母は忙しい父を、家庭をまもるという形でささえていましたが、世が世なら何か仕事をしていただろうという雰囲気を漂わせている人でした。産婦人科医に なって女性の生き方に関わることになったのは、こういう母の影響も受けていると思います。
臨床現場でDVにあった女性などを診ていると、女性が経済的に自立していない問題が根底にあると感じます。また女性が仕事をする場合、家庭の役割の大部 分を担っているのが現状で、とても共同参画といえる状態ではありません。男性と女性がお互いを尊重して、いのちを繋(つな)いでいくことの大切さを教える 性教育が必要です。
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日本では今、専門家といわれる人が信用されない状況になっています。専門家の専門性を人のため に役立てるという意識が低いのではないか。医療専門家の役割はいのちを守ることです。いのちを奪う戦争に反対することも、生命を生む女性が大切にされる社 会のため努力することも、産婦人科医の役割だと思います。
堀口 貞夫 さん(産婦人科医)
1933年、神奈川県生まれ。現在は、中林病院・主婦会館クリニック「からだと心の診察室」で、妊娠関連、性障害、性同一性障害などの診療・相談を行 う。著書は『10代からのセイファーセックス入門』(緑風出版)、『妊娠中の食事と栄養BOOK』(成美堂出版)など多数。
(民医連新聞 第1396号 2007年1月22日)