陸に上った軍艦 戦争が現実だったら ―川村記者の映画エキストラ体験
「原爆の子」や「第五福竜丸」などでメガホンを取った新藤兼人監督(94)。長年あたためていた監督自身の「一兵卒」としての戦 争体験が映画化され、今年の夏に公開されます。タイトルは「陸(おか)に上った軍艦(山本保博監督)」。一〇月一七日、川村淳二記者がエキストラで体当た り出演しました。(横山 健記者)
兵士役は丸坊主に
早朝から向かった先は、長野県諏訪市。上諏訪駅を降りて、車で五分もかからない上諏訪温泉「片倉館」が今回の撮影場所。すでにスタッフが準備に走り回っていました。主人公の新藤兼人を演じる蟹江一平さん(劇団青年座)の姿もありました。
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エキストラ出演者が集まったところで自己紹介。その場で年齢や風格から配役が決められます。川村記者は「一等兵曹」という海軍下士官の役。衣装が渡され 軍服に着がえ始めると、室内の雰囲気は一気に昭和初期へ…。衣装担当スタッフがアマチュア劇団の青年たちに一言。 「髪が長いから、後で坊主にしてね」、出演者もけっこう大変です…。
衣装の次はゲートルを巻きます。スタッフや役者さんが「ゲートル巻き講座」を開催。「折り目は揃えて。端は横にくるように」。巻いたことがない人ばかり なので悪戦苦闘、何度も巻き直し。戦時中なら上官に殴られているところです。ベルトや帽子などの小道具を身につけ準備完了。いざ撮影現場へ!
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終戦当時、新藤兼人さんが所属していたのは、兵庫県の海軍航空隊・宝塚分遣隊。海軍が宝塚大劇場を接収して指令本部を置いていました。宝塚大劇場は新しく建て替えられているため、雰囲気が似ている「片倉館」を宝塚大劇場に見立てて撮影しました。
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最初は、「整列して玉音放送を聴く」シーン。当時、予科練生だった人から、海軍流のおじぎの仕方、帽子のかぶり方、姿勢などを教わります。本番は、周り を行き交う車も止めての撮影でピリピリした緊張感が漂います。さっきまで笑顔だった山本監督やスタッフ、役者さんたちの目つきも変わりました。
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午後四時過ぎ、川村記者の出演シーンはようやく終了。着替えていると、高校生約一〇人が授業を終えて到着。野球部員なのかすでに坊主頭です。この後、撮影は夜まで続きました。
山本保博監督―“今、形にしなければ” 新藤兼人さんが映像化しようと書いたシナリオを読み、「今、形にしなければ、貴重な体験がなくなってしまう」と映画化の相談をしました。九四歳になる進藤さんも「海軍での掃除の仕方」などを実演して、熱心に指導してくれました。 * 戦争になれば、普通の市民すべてが関わることになります。医療関係者のみなさんも、軍隊の一部として行動することになります。何も言えない中で、「傷ついた人びとのため」の医療ではなく、「軍隊のため」の医療を強制されます。 |
エキストラ体験者は…
小沢洋子さん(諏訪共立病院元職員)
軍隊から一時帰宅した息子との面会シーンの撮影は、本当に涙が出た。当時の命がけだった雰囲気がよく再現されていたから、思わず「お国のためにがんばれ」と叫んでしまった。
佐藤淑子さん(諏訪共立病院元職員)
終戦の日、工場長から「集まれ」と言われ、工場内に整列して玉音放送を聴いたのを思い出した。でも電波が悪くて理解できず、「いよいよ本土決戦? 一億総玉砕?」とみんなで話していた。
川村淳二 記者
装備や服装はもちろん、立ち位置まで階級による違いが厳密にあり驚いた。これが日常なら息苦しくてたまらない。出演者が少ないし、二役だし、緊張した。
(民医連新聞 第1395号 2007年1月1日)