戦争をやめ、平和・公正・持続可能な社会へ 第1回世界平和フォーラム カナダ
核廃絶と9条の役割訴え、感じ、考えた
第一回世界平和フォーラム(WPF)が六月二三~二八日、カナダ・バンクーバーで開かれました。「戦争をやめ、平和・公正・持続可能な社会 をつくろう」がテーマで、九七カ国・五〇〇〇人が参加、三五〇のイベントが行われました。全日本民医連から大河原貞人事務局次長、石川・城北病院の清水祐 介さん、京都協立病院の村上純一さんが、日本原水協代表団(一四六人)の一員として参加しました。
このフォーラムは、バンクーバー市平和正義委員会などの呼びかけで二〇〇三年から準備され、原水協に参加要請がありました。
開会式は、平和メッセンジャー都市国際協会と平和市長会議が共催したものです。基調講演でエレン・ウッズワース さん(元バンクーバー市長代理)は「私たちの『平和』とは、核兵器廃絶やイラク戦争の終了なども含めた全体。地方のコミュニティも持続可能な社会に向け動 くべき。世界の資源は限られ、戦争に消費しているときではない。ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ・ホロコーストの社会へ」とのべました。
日本の代表団は、会場や市内で核廃絶の署名行動をし、核兵器や憲法問題で分科会を開催、被爆証言や写真展を開き、各国の参加者と交流しました。市内六㌔五〇〇〇人のピースウオークは圧巻でした。
「日本国憲法九条」の分科会は、参加者が二〇〇人を超え、廊下にあふれました。「バンクーバー九条の会」の乗松聡子さんは「日系人以外にも広がり一〇〇人余の会員の三割はカナダ人。署名は二〇〇〇筆」と報告しました。会場から「ブラジルでもつくりたい」の声も出ました。
「軍事基地反対運動」や「グローバル被爆者の証言」などの分科会もあり、各国の参加者は、主義や立場の違いを認め合いながら、熱心に討議しました。(大河原貞人、事務局次長)
「若者も捨てたものじゃない!」
9条の分科会で発言 石川・清水祐介(看護師)
職場の皆さんからカンパもあり、快く送りだしてもらいました。
九条についての分科会で、「若者の関心は低い」と言った人がいたので、民医連青年のピーチャリや「青年九条の会」のとりくみを報告し、「若者も捨てたものじゃない」と発言しました。拍手を受け、日系人や欧米人からも声をかけられました。
日本から青年の参加は二十数人。大学生・高校生がほとんどで、お互いの活動を交流しました。ヒロシマに関する本を英訳して、米国大使館はじめイラク参戦国に配っている大学生サークルがありました。何かしたい、行動したいという意欲があると感じました。
被爆六〇周年の原水禁世界大会に続き、本フォーラムでも被爆者の話を聴きました。苦しみが今も続き、それは一人ひとり違い、身体だけでなく精神的な苦痛も大きいと知りました。
子どもの時に被爆した女性は、結婚して妊娠したとき、親戚中から「産むな」と言われ、がんばって産んだけれど、 二人目は産めず、孫も、ひ孫も心配、「もう死にたい」と語りました。被爆の苦しみは世代を超え続いています。高齢になった被爆者に代わり、私たちが伝えて いかなくてはいけない、と考えます。人として感じることが多くありました。
命を見つめるには平和な社会が必要
参加して考えたこと 京都・村上純一(医師)
先輩医師の呼びかけで、参加を決めました。
印象深かったのはピースウオークです。オフィス街の道いっぱい、アメイジンググレイスの曲で「父を返せ、母を返せ」の詩を歌いながら歩きました。
分科会で発言しましたが回答いただけず残念でした。被爆者の話に心を打たれました。ハードな日程なのに、つらい身体を引きずって来たのは、「若い世代や世界の人に伝えたい」という熱意からでしょう。
自分がフォーラムに参加する意味を考えました。
僕は医師で、可能な限り目の前の患者さんを見つめ、寄り添うようにしています。でも、それが可能なのは自分の周囲が安心できる場だからです。もし平和でなかったら、目の前の患者さんに集中できないと思います。
小学生の時、『悪魔の飽食』を読んで心の底から「恐ろしい」と思いました。メスは凶器になりえます。人の命を見つめる仕事には、良い方向にむいた安定した社会が必要です。自分の手や声の届く人たちに平和を語らなくては。
平和のことを素直に語るのは、正直テレくさい。でも、医師には社会的な役割と影響力があります。誰にとっても「健康は大事」です。同じように平和も、すべての人に大切です。医師が「平和が大事」と言うのは自然なことだと思えるようになりました。
日本に帰ったらすぐ、テポドン騒ぎが起きました。制裁すれば問題が解決するのでしょうか? 軍備を強化したい一 部の人たちは、逆に「よくやってくれた」と喜んでいるそうです。おかしなことです。世界に誇る憲法九条の精神を生かして、国が健康になれば平和になると思 います。
(民医連新聞 第1385号 2006年8月7日)