宮崎民医連が誕生 全日本民医連は45県連に 地域に根ざし、患者さんを守る砦
民医連に四五番目の県連が誕生しました。宮崎民医連が鹿児島民医連から独立しました。これは一九九七年の滋賀民医連誕生以来、九年ぶりで す。六月二四~二五日、小雨が降る宮崎市内で行われた結成式とレセプションには、職員と共同組織の方がたの笑顔があふれました。(横山健記者)
開会のあいさつで、宮崎医療生協理事長の中村育夫医師は、「鹿児島から分離することにメリットはあるのか、を何年も議論してきました。そして、独立した県連として巣立たなければ、宮崎で民医連の発展はないという結論になりました」と、のべました。
鹿児島民医連会長の税所(さいしょ)孝樹医師は、「ともに南日本をささえ、がんばろう」と激励。九州・沖縄地協の各県連が「困難なこの時期、全国の仲間に元気を与える」と喜びのメッセージを寄せました。
住民と歩んで
一九七五年、「病気になったとき気軽に相談できる医療機関を宮崎に」、住民の願いを受け、民主診療所設立準備会が結成されました。そして翌年一〇月、宮崎共立診療所が完成しました。
八四年、診療所を宮崎共立病院(二五床)にして、医療法人共愛会を結成しました。九〇年に医療生協に組織変更し、病院名も宮崎生協病院に改称しました。
現在、宮崎生協病院(一二〇床)をセンターに、クリニック三カ所、訪問看護ステーション二カ所、ヘルパーステーション二カ所、職員数二八〇人まで成長しました。組合員数も約三万六〇〇〇人に拡大しました。
四年前から始まった「鹿児島民医連独立会議」。宮崎が独立する上で一番の問題になったのは医師問題でした。独立後、宮崎民医連の医師数は一七人になります。これから五年をかけて、鹿児島・宮崎の統一医師団を分離し、医師派遣や研修システムなども見直していく予定です。
新たな決意で
総会では、宮崎医療生協の前身・共愛会の理事長をしていた弁護士の鍬田萬喜雄さんが発言。「本当に待ちに待っ た。当時は医師が一人しかおらず、公害検診もできなかった」。七一年にヒ素公害が起きたとき、宮崎に診てくれる病院がなく、岡山大学まで行って検診を受け てもらうという、悔しい思いをしました。
記念講演を行った肥田泰全日本民医連会長は、「全国の教訓に学んで存在感のある県連に」と激励しました。
新県連の運動方針について、各事業所から決意や期待の発言がありました。和知川原生協クリニック事務長の内村浩三さんは、「医療改悪で、食事代が払えないという入院患者さんが出はじめました。全事業所で患者さんを守る運動をつくろう」とのべました。
宮崎生協病院・看護師の小牟田佐知子さんは、「7:1の届け出ができるかどうかは、看護師確保にかかっている。 大学病院なども看護学校訪問を強化し、看護師確保にやっきになっている。医療改悪に反対する署名や宣伝を強めよう。看護を、光を受けて輝く月から、自ら輝 く太陽にしたい」と語りました。
結成総会では、基本方針などを決め、第一期の役員選出が行なわれました(左)。会長に就任した末岡常昌医師は、 「後継者としての医師対策は重要です。そのためにも『自ら考える』主体的な職場づくり、職員育成をしたい。大いに議論し、組織を守る、職員を守る二年間に したい」と、抱負を語りました。
宮崎民医連
理念
人の命に差別があってはならない
基本方針
1.人権を尊重し、患者の権利を守ります
2.医学の成果に学び、医療と福祉の質の向上に努めます
3.科学性とヒューマニズムにあふれる民主的な職員集団をめざします
4.平和憲法を守り、戦争に反対します
5.これらの方針を地域の人びとと協同してすすめます
役員体制
会長 | 末岡 常昌 | 医師 |
副会長 | 日高 明義 | 医師 |
同 | 関 良二 | 医師 |
同 | 長住 和哉 | 事務 |
事務局長 | 松田 俊夫 | 事務 |
理事 | 遠藤 豊 | 医師 |
同 | 山岡伊智子 | 医師 |
同 | 児玉チトシ | 看護師 |
同 | 小牟田佐知子 | 看護師 |
同 | 仁田脇弘文 | 放射線技師 |
同 | 大田原良治 | 事務 |
同 | 小牟田 貫 | 事務 |
同 | 白石 敏夫 | 事務 |
同 | 茄子田恒平 | 事務 |
会計監査 | 大西 宏幸 | 事務 |
同 | 長友 則子 | 事務 |
(民医連新聞 第1384号 2006年7月17日)