原爆症認定集団訴訟 “被爆者を2度と出さない”命がけのたたかい
証言に立てて私は幸せです
東神戸診療所・郷地(ごうち)秀夫医師
国に原爆症の認定を求める集団訴訟が、全国一三地裁に起こされ、最初の判決が、五月一二日、大阪地裁で出 ました。九人の原告全員の勝利です。民医連医師も、各地で証言に立つとともに、訴訟支援医師団を結成し、「原爆症認定に関する医師団意見書」をまとめ、被 爆者といっしょにたたかっています。法廷での証言にあたった東神戸診療所の郷地秀夫医師と、原告の一人、木村民子さんにききました。(木下直子記者)
被爆者の体と言葉に真実がある
大阪地裁の原告九人は、みな自ら決意し、提訴した人たちです。これまで認定の対象外とされてきた遠距離被爆・入市被爆が四人。また、ガンのほか、放射線との関係性が論証しにくい動脈硬化や白内障が主病名という方もいます。
実は、この訴訟にとりくむ前の私は、「原爆症申請をしても、国の基準に届かない」と、こうした被爆者の方の意見 書をお断りしてきたのです。しかし、訴訟のたたかいの中で、それがとんでもない誤りだったと気づきました。法廷で集会の中で、自らの体験を有り体に語られ る原告の訴えを聞き、触れる中で、私は初めて気付いたのです。現に原爆を体験した被爆者の言葉の中にこそ真実がある。その訴えを信じないで、そこに依拠し ないで、何が言えるのかとー。その心と身体に刻み込まれた被爆者の方がたの人生そのものが、何よりも真実の証に違いない。そう私は確信したのです。
爆心地からの距離や原因確率などの基準を、機械的にあてはめ、原爆症認定しない日本政府は、被爆者の苦しみを人生を否定してきたのです。
「原爆がどんな傷病や苦難を人類にもたらすのか、それは被爆者を見守り、その実相を書き留めていくことでしか知り得ない。そのことが今の私たちの使命であり、科学の課題なのだ」法廷で私は言い切りました。
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大阪地裁の判決は、正にその医学や科学の限界を指摘し、「医学的な論証はひとつの参考資料。被爆者の人生・体験の中に事実がある」と言い切りました。「被爆者の思いが届いた」のです。これ以上の喜びはありません。
偏り(バイアス)のない調査ができれば
裁判の三年間、大阪民医連の小林栄一先生、京都の三宅成恒先生の三人の近畿支援医師団でとりくんできました。医 師団統一意見書を中心に据え、文献探しに明け暮れました。広島・長崎も資料探しで歩き回りました。集団訴訟の支援医師と知った古書店の主が、売りものにせ ず大切にしていた一冊を倉庫から出してくれたこともあります。この店主も被爆者でした。
私が血眼になって探したのは、残留放射線の影響について触れた文献です。アメリカは戦後すぐから被爆者調査を開 始しましたが、その資料を全て持ち帰り、その結果を公表しませんでした。「原爆の後遺症を認めない」と主張するアメリカは研究や報道すら規制してきたので す。厚生労働省が原爆症の認定基準に使用しているデータは、そのアメリカの研究を引き継いだ放射線影響研究所のものです。そのため、「残留放射線の影響は ほとんどない」ことを前提としており、被爆の実相とはかけ離れています。
使用データも古く、最近一〇年のがん発生率や死亡率が入っていません。研究予算を増やし、バイアスのない調査をすれば、放射線障害の実相があきらかになるはずです。
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今年に入ってからでも、新しい研究が次つぎに発表されています。甲状腺障害の多発、骨髄異形成症候群の有意の増 加、そして遂に「入市被爆者に、自血病が有意に多い」という研究発表もされました。原爆放射線が人間に何を起こすのか、残留放射線がどのように関わってい るのか、科学のメスが正にこれから被爆の実相を明らかにしていくはずです。
原告たちの思い
原告の思いは、「自分の原爆症を認めてほしい」というだけではありません。「二度と被爆者を出したくない、出してはならない」そんな強い思いから、立ち上がられたのです。
裁判では、思い出したくない記憶も呼び起こされます。当時ほとんどの原告は一〇代、その脳裏に刻まれた記憶は鮮 烈でした。燃えさかる家の中から助けを求める叫び、倒れていた人に足を掴まれ「水を」と言われながら、何もできなかったこと、一帯に横たわる屍をまたぎき れず、その上を逃げざるをえなかったこと。ひとりひとりの苦難の道は異なっても、人間を人間でなくす原爆の地獄、その極限を乗り越え、生き抜き、そして、 今、反核・平和という、一つの崇高な思いに、強く結ばれた、たくましくも、神々しい原告の人たちなのです。
こんなたたかいに関わり、法廷で証言する機会まで与えられた私は、本当に幸せだと思っています。
そして、勝利はすぐそこにある。そう確信しています。
まわりの人たちのささえで最後まであきらめませんでした 原告・木村民子さんのお話 全員勝訴で、ほんまに良かった。 私は大阪大空襲で焼け出され、兄夫婦のいた広島へ家族で身を寄せて、原爆にあいました。背中から足にかけ て火傷し、数日後から、歯茎からの出血、吐き気やめまいが出ました。小学2年生でしたが、5年生位までほとんど学校に行っていません。復旧の遅れもあった でしょうが、だるくて家でゴロゴロしていた記憶があります。 家族9人で生活はたいへんでした。遺体がたくさん浮く川で捕った貝や、真っ黒に灰をかぶった野菜なども食べました。 中学卒業後、大阪に戻って就職、結婚後は夫婦で商売をしてきました。丈夫ではなかったですが、必死で働きました。 そして65歳で胃癌がみつかりました。被爆した家族はみな癌や白血病だったので、「やっぱり」と原爆のことを思いました。胃の3分の2をとり、抗ガン剤の治療を受け、こんな苦しい目をするのなら、と原爆症を申請。却下されました。 厳しいとは聞いてはいましたが、その通知をみたショックはガンと聴いたとき以上でした。「聴き取りもな く、紙切れ1枚よこして原爆症を認めないというのか」と、怒りがこみ上げました。怒りの持って行き場がなく、被爆者健診に毎年行っていた此花診療所の小林 栄一先生にお電話しました。集団訴訟はそのとき知らされました。 手術から半年で、裁判はきつく、気持ちだけで法廷に通いました。裁判中、脳内出血で倒れましたが、奇跡的に助かりました。ささえだったのは、何も言わず見守ってくれる夫や子どもたちと、支援者、小林先生です。先生は励ましの手紙を下さいました。何度も読み返しています。 国は上告しましたが、投げ出さずに最後までがんばります。判決後、「上告しないで」と厚労省にも行きましたが、遠くからきた被爆者にイスも出さず、話も聴かない。「被爆者が死ぬまで待っているのですか?」と私、思わず言いました。 裁判はたいへんですが、いろいろな人と出会え、以前よりずっと社会のことが分かるようになりました。せっかくみんなの支援で勝てたのに、断ち切るわけにはいきません。 |
▼原爆症認定集団訴訟
…広島・長崎の原爆被爆者たちが、国を相手に一三地裁で起こした裁判。ガンなどの疾病が、「原爆による疾病(原爆症)」だと認め、実態にあった認定基準に見直すよう求めている。
原爆被爆者は全国二六万余人、多くが疾病に苦しんでいる。しかし、原爆症と認定されているのはわずか二〇〇〇人 あまりで、全被爆者の〇・八%にもならない。この原因は、国の認定基準や機械的な認定方法にある。「遠距離被爆者」や原爆投下後、爆心地周辺に入った「入 市被爆者」の申請は、放射線の影響がない、と軒並み却下されている。
過去に三人が認定却下を不服とした訴訟(京都、松谷、東)を起こし、全員勝訴したが、それでも国は認定基準を改めなかった。今回、大阪地裁が原告の訴えを認め、国に認定却下を取り消すよう命じた判決も不服として控訴した。
被爆者の平均年齢は七〇歳を超えた。命がけの最後のたたかいを決意した原告は、一八都道府県一七六人(六月末現在)。青年を中心に、支援組織がつくられている地域も多い。
(民医連新聞 第1384号 2006年7月17日)