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民医連新聞

民医連新聞

第8回共同組織活動交流集会 リレートークから

ユニークな健康づくり、地域協同で介護事業、被災者支援、9条守る
とりくみいきいき交流

リレートークでは四人が報告しました。

ヘルスアップチャレンジにとりくんで
岡山医療生協 川崎順子

 治療は大切ですが、予防や健康づくりはいっそう大切です。健康づくりや、「健康日本21」を組合員や住民に広め、よい生活習慣を身につけてもらおうと 「ヘルスアップチャレンジ」にとりくみました。仲間三人以上でグループを作り、「シンデレラ睡眠コース(二四時には寝る)」など多様なコースにエントリー し挑戦します。期間は一〇~一二月末までのうち、続けて六〇日間。
 準備は開始八カ月前から、保健委員といっしょに実行委員会を結成、毎月会議を重ねました。行政といっしょに健康づくりをすすめるため、支部のある市町村へ後援のお願いにも行きました。
 参加者はのべ二六七二人にものぼりました。一軒のぞいて残りは組合員という村では、有線放送でお知らせ。セラバンド体操に挑戦しました。
 健康チェック、健診に加え、保健活動の中心に健康増進を位置づけ、さらに輪を広げたいです。

協同のあるまちづくり
庄内医療生協 渡部正一

 庄内医療生協では地域の団体と協力し「協同のあるまちづくり」を実践してきました。地域は高齢化し、当時、在宅での生活不安が募っていました。鶴岡市 に、特養ホームの増設を求めても、なかなか実現しないため、組合員から、自分たちで高齢者施設をつくろうと声があがりました。
 二一〇人の呼びかけ人で、「老人保健施設をつくる虹の会」を結成、地域に協力を訴えました。結果、八カ月で約五〇〇〇人から一億円が寄せられました。そ の後、さらに三団体が加わり、「庄内まちづくり事業協同組合虹」を設立、ケア付高齢者住宅二施設も開設しました。
 また、介護事業と保健予防にも本格的にとりくみ、運動習慣を身につけること、寝たきり予防、サークル活動で組織づくり、を目的に、メディカルフィットネス「ViViD」も開設。
 今後も地域の要求に応え、さまざまな団体とも連携し、さらに協同のあるまちづくりをめざしていきたいです。

中越地震における組合員奮戦記
長岡医療生協 村山光映

 中越地震への全国のご支援、ありがとうございました。
 地震後、体育館には五〇〇人以上が避難し、お年寄りから赤ちゃん、犬や猫までがひしめきあいました。赤ちゃんとペットの鳴き声が館内に響き、小さなことでも、トラブルになりました。
 全国から続ぞくと集まる民医連のボランティアさんと地元の組合員で全戸訪問をし、障子の張り替え、ゴミの搬出なども行いました。休みなくがんばれたの は、支援のみなさんのおかげ、やはり組織の力です。
 生協の診療所も被災者に開放しました。入浴、トイレ、炊き出しなど二四時間で職員が見守り、地域からたいへん感謝されました。組織としての救援活動が実 り、その後組合員さんを新たに五七九人も迎え入れることができました。
 また冬は除雪、屋根の雪下ろしなど、毎週ボランティアさんに来ていただき、地域からは、「ここまでやってくれるのか」と信頼され、医療生協が広く認知されました。

県民過半数署名をすすめる九条の会
長野医療生協 平出潤一郎

 長野県では昨年三月、憲法九条を守るため、一六人が呼びかけ、「県民過半数署名をすすめる会」が発足しました。ある地域では、新聞販売店の店主が呼びか け人になり、新聞広告に無料で折り込むなどという感動的なドラマも生まれました。
 四月に行われた「九条守る県民のつどい」には、二八〇〇人が集まり、会場に人があふれました。
 長野中央病院でも「長野医療生協九条の会発足のつどい」を開きました。若い小児科医は「日本国憲法を捨てた大人、と呼ばれることなく、日本国憲法を守っ た大人として、子どもたちに尊敬されたい」と、語りました。また当法人の二七支部のうち、一三支部で九条の会ができ、現在、八支部が準備中です。
 集まった署名はまだまだ過半数には満たないですが、これからも輪を広げていきます。

講演
「いのちの賛歌を」澤地久枝さん
戦争をすすめる勢力に一ミリもひきさがれない

 澤地久枝さんは、「いのちの現場にいるみなさん、学習してください。そして今、日本の憲法がどうされようとしているか、自分はどう思うか、何ができる か、考えて下さい」と、呼びかけました。「私の国は、世界のために平和的に貢献するノウハウを持っている、と言えるよう少しでも近づけたい」と「九条の 会」の活動や、戦争体験、そしていまも戦火の犠牲になっている世界の人たちのことを語りました。そして、自らの平和への決意は…。

*    *

 戦争中、私はどうしようもない軍国少女でした。戦後、どんなに死にたくない人たちがあの戦争で死んでいったかということ、多くの遺族が残され、また犠牲になった他国の人たちがいる、と知りました。そして「今後、いっさいの殺しあいに反対しなくては」と思ったのです。
 物書きになって三三年。これまで「一生懸命生きたけれど、歴史に忘れられた」という人たちを書きたいと思ってきました。また、歴史を正しく伝えるには、 日本人がひどい目にあったことだけを書くだけでは足りない、他国にどんな被害を与えたかも知らないといけない、とも。
 侵略戦争を起こしたかつての日本の政治と、憲法が許していない自衛隊の海外派兵を押し通し、平和憲法もなくそうという今の政権は、へその緒でつながって います。私は彼らには「一㍉もひきさがることはできない」と、思っています。
 スペインに、パブロ・カザルスというチェロ演奏家がいました。彼の弟に、召集令状が届いた時のことです。お母さんは言いました。「お前は誰も殺すことは ありません。また、誰もお前を殺してはならないのです。人は殺したり殺されたりするために生まれたのではありません。この国から逃げなさい」。弟は母の言 葉どおりスペインを脱出し、アルゼンチンへ亡命しました。カザルスは「もし、世界中の母親が息子に向って私の母と同じことをしたなら、世界から戦争はなく なるだろう」と語っています。
 私はさらにこう言いたい。「そんな女性の隣に、『そういう君を守る』という男性がいれば、日本は良い国になる。それはここにいる人たちの決心次第」と。
 大きな権力に立ち向かうことも、たくさんの人といっしょなら、怖いことではありません。

(民医連新聞 第1359号 2005年7月4日)