「平和、失う前に行動を」 -平和活動交流集会で決意-
「憲法を守る学習を交流しよう」「職場に地域に共同の輪を広げよう」。全日本民医連は五月一二~一四日、「平和活動交流集会」を神奈川県で開きま した。参加者は青年職員を中心に約二〇〇人。「平和ガイドマップ」を持ち寄りました。被爆体験・講演を聞き、同県内の基地を視察、各県の活動から学び、意 思を固めました。
「戦争への道か、平和を守るのか、きわめて重要な節目に開いている」。基調報告した田代博反核平和委員長は、今集会を「情勢をつかみ、経験交流し、新た な前進をつくるステップにしよう」とのべ、緊迫する状況を説明しました。
『戦争のつくり方』(池田香代子著)が描く事態や、「自分が立ち上がったとき、すべてがあまりにも遅かった」と いうマルチン・ニーメラーの言葉を引用し、「現実を直視し、いまを戦前にしないように、ともに学び考え、行動しよう」と提起。また、辺野古支援連帯基金を 呼びかけました。
被爆体験を聞く
中村雄子さんが一三歳で被爆した体験を語りました。
女学生のとき広島の工場で被爆。血だらけで山に逃げると、ねっとりした黒いものが空から降ってきました。放射性物質を含んだ黒い雨でした。屋外作業中の下級生は全員死亡。「戦争では子どもが一番の犠牲者」と語りました。
中村さんらの「神奈川県原爆被災者の会」は、被爆体験を絵本にし、NPT再検討会議の際、ニューヨークに持参。「また子どもたちの上に原爆を落としたいか?」と訴えてきました。
原爆でどのように死んだか…
肥田舜太郎医師(全日本民医連顧問)は広島で被爆。
兵隊を治せば戦地に戻される、疑問を感じながら軍医として働く日々。原爆投下の朝は、離れた村へ赤ちゃんを往診中でした。閃光の後、キノコ雲が見え凄い爆風が。抱いて逃げた赤ちゃんは泥だらけでしたが、幸い生きていました。
自転車で病院に向かうと、全身真っ黒で両目が腫れあがり、鼻もなく皮膚が垂れ下がった人に何人も会いました。道にも川にも、遺体や火から逃げてきた人でいっぱい。「よく気が狂わなかったと思う」と語りました。
医師としてなすすべもなく、村に戻り、土の上に寝ている千人もの重傷者に、打撲と火傷の治療を続けました。そして数日後、突然に負傷者が高熱を出し、目尻、鼻、歯茎から出血し、何人もが死亡。爆心地に救援や人を捜しに入った人も、被爆した人と同じ症状で死にました。
命をボロくずにする戦争
その後、被爆者の医療に献身した肥田医師は「被爆者はその後も苦しみ続けた。放射能を帯びた埃や水が体内に入ったための体内被爆を日米の政府は否定し、調査も怠った」と声を震わせました。
また「六〇年前あんな戦争が起きると思わなかった。黙っているとそうなるのだ。命をボロくずのように捨て、一般 人が何人死のうが構わないのが戦争。日本政府は戦争を肯定しており、急激に攻撃する国に変わっている。これを知った人が働きかけるしかない。民医連の職員 は腹をすえてほしい」、述懐をこめ、呼びかけました。
衝撃的な話に、しんとしたなか鼻をすする音が響きました。
米軍と自衛隊が一体で
神奈川県平和委員会の鈴木和弘氏の講演で、基地視察に向け学習しました。同県内の米軍基地は、陸海で一六施設一七カ所。横田(東京)に空軍があり、首都圏に三軍を置いています。米軍基地再編と自衛隊の共同の危険性、住民の運動について学びました。
二日目は基地をめぐり、三日目は三つの指定報告と、ピース・リレートーク、「平和ガイドマップ」発表などで交流し、今後への決意を固め合いました(別項)。
小林裕子記者
米軍基地を視察 被害の深刻さ実感
地元の平和委員会のガイドで、米軍基地の視察をしました。
最初の見学地、「池子米軍住宅地区」は天然記念物のオジロワシ、絶滅危惧種のオオタカやフクロウが生息する森を 切り開いて建設されました。県営住宅の三倍の費用をかけて建設される米軍住宅だけではなく、基地内のすべてが、日本政府からの思いやり予算でまかなわれて います。今後もさらに森を破壊し、住宅が建設される計画もあります。
「横須賀基地」では、大型ボートに乗って海上から基地を視察。基地内には原子力潜水艦用バース(岸壁)もあります。現在の空母に代わり、原子力空母の配置も計画されています。
「厚木基地」では、昼夜を問わず戦闘機が離発着訓練を行っており、米軍のいう「自由のための爆音」に周囲一五〇万人の住民が平穏な暮らしを奪われています。ガイドは「問題は爆音だけではない、これは人殺しの訓練。厚木以外で、ではなく、やめてもらいたい」と話しました。
米国内で基地建設する際は周辺の動植物への影響を調査、問題のない砂漠などを選び、爆音の届く範囲の土地を買い上げる徹底ぶりです。しかし、日本ではフェンスのすぐ横に民家や小学校が並んでいます。まさに動植物以下の扱いを受けているのが現状です。横山 健記者
ピース・リレートーク
各地のとりくみ報告
西区ひまわり薬局九条の会
北海道・大島雅希
当薬局も「九条の会」に応え、一一月二九日に九条の会を結成しました。
若手職員は親も戦争を知らない世代です。今回、学習を目的に戦争体験者を訪問し、話を聞きました。
参加者は「戦争を体験した人は苦しみを抱えて生きてきた。『戦争する国に』になりつつある時に、何もしないでいられない」などの感想を出しました。
戦争体験者の思いを次の世代へ引き継ぎ、戦争の悲惨さを伝え、憲法改悪を許さない運動の先頭に立っていきたいと思います。
尾張健友会の平和サークル
愛知・大口加奈子
二〇〇三年の原水禁世界大会に参加した友の会員の「平和への関心を持ってほしい」という思いと、職員の「もっと知りたい」という思いから平和サークルをつくりました。現在は学習を中心に活動しています。
先日も辺野古基地反対運動の報告会に参加し、「日本が米軍に出している思いやり予算を福祉にまわせば老人医療を無料にできる。自然を破壊し、殺人鬼をつくるために私たちは働いているわけではない」と怒りの報告を聞きました。
私たちは友の会員の知恵と経験を借りて、日常の中で楽しく参加できるよう活動を続けていきたいと思います。
ピースアクション2005
京都・高橋芳江
原水禁世界大会など、平和のとりくみに参加した青年職員の思いを一つにしたいと、「平和プロジェクト会議」をつくりました。
第一回は七人でしたが、第二回は二二人となり、語り部となった漫才師の喜味こいしさんを招き、戦争体験を語ってもらいました。
第三回では京都にある戦跡を盛り込んだピースマップを作成しました。参加者から「ピースツアーもしたい」という声が出たため、第四回はピースツアーのコースを考えました。そして六月二五日にピースツアーを行うことになりました。
今後も青年世代が平和の展望がもてる活動をしていきたいと思います。
ピースナビゲーター(碑めぐり案内人)
広島・桑原国博
原爆投下から六〇年目。被爆者も高齢になり、体験を語ることも限界に近づいています。広島で育ち、働く若者が語り継いでいく必要性を感じました。
JB実行委員会で講師を招き、ピースナビゲーター講座をひらきました。はじめは資料を見ながらのたどたどしい説明でしたが、徐々に自分の言葉で案内できるようになりました。
中・四国のJB実行委員を案内したメンバーは「戦争体験はないけど、戦争はいやだ。碑にこめられた思いをみんなに伝えていきたい」と振り返りました。参加者からは「同世代で分かりやすかった」「平和の意識を高めていきたい」と感想をもらいました。
平和公園を訪れてください。私たちがピースナビゲーターをします。
自転車平和リレー
北海道・村川貴洋
反核平和自転車リレーは今年で一一回目です。今回は約一〇〇人が参加、平和を願い、仲間の思いも背負って笑顔で一生懸命ペダルをこいでいます。
またリレーの途中では核廃絶の署名も行いました。私たちもはじめはしどろもどろでしたが、「自分のありのままでしゃべっても分かってくれるんだ」と気づいて楽になりました。
現在、北海道と沖縄は反核平和自転車リレーの交流をしています。今後は「本州の仲間に」が課題です。
平和リレーを通じて青年の元気な活動を継続・発展させることを誓います。
(民医連新聞 第1357号 2005年6月6日)