“水俣病患者はまだいる” 隠れた被害者を検診で救え 熊本・水俣協立病院
「水俣病の被害拡大は対策を怠った国、熊本県に責任があり、損害賠償を命じる。原告を水俣病と認定する」。二〇〇四年一〇月、水俣病関西訴訟で最高裁判 所が下した判決は原告の勝利でした。判決を力に、初めて水俣病の検診を受け、認定申請にふみきる人が出ています。三〇年にわたり、水俣病患者とともにたた かってきた熊本・水俣協立病院は、被害を受けた地域住民の力になろうと、九州沖縄地協の支援も受け検診にとりくんでいます。(荒井正和記者)
毎週日曜日が検診日
同院には判決後、水俣病の認定申請のために診断を希望して来る人が増えました。
水俣病の診断には、汚染物質が出はじめた一九三〇年代からの生活歴を聴きとり、現病歴、自覚症状などを確認します。視覚、聴覚、知覚、運動機能検査など が必要で、診断には時間がかかります。予約も二カ月先までいっぱいになりました。そこで、今年三月から毎週日曜日に検診をしています。日常診療の中では対 応しきれなくなったからです。
松田寿生事務長は「地域で判決内容と検診を知らせる説明会を開きました。集まったのは検診を受けたことがない人。でも自覚症状はあるんです。今まで差別 やチッソへの遠慮などで控えていた。そういう人が連絡をとりあって検診に来ています」と話しました。
四月一七日は、五九人が検診を受けに来ました。午前八時の受付開始から午後五時を過ぎても数人がまだ三次検診を待っていました。
対応に当たった職員は四六人。熊本県内のほかの法人や、福岡や大分、鹿児島・宮崎からも支援に駆けつけました。
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「お子さんの結婚に影響しないか心配で、水俣病の検診を受けてこなかったのですね」。鹿児島生協病院から来た上村寛和医師は受診者に語りかけます。上村医師の支援は二度目です。
「前回の検診で、視野狭窄などがかなりすすんだ患者さんを診ました。いまだに症状の重い患者さんが残されていたことに本当に驚きました」。
隣の医師は触覚検査をしていました。目を閉じた受診者の首や手や足を筆でなでていきます。「どこに触れたか分かりましたか?」の質問に受診者は「首で す」と答えました。手や足に触れたことは分かりませんでした。
政府は実態調査しない
この検診の中心を担い、支援に来た医師に神経所見の取り方を教えるのは、協立クリニックの高岡滋院長です。
「患者の発生が確認されてから五〇年近く経とうとしています。今回初めて診察を受ける患者さんが八割を占め、そ の症状も軽い人たちばかりではありません。水俣病は本来中毒症として徹底した実態調査が必要です。しかし、国はそれをしようとしません」と高岡医師は言葉 を強めました。
二月、新たな認定申請者で水俣病不知火患者会を結成。同会が窓口となり、検診を呼びかけています。
瀧本忠事務局長はいいます。「自分の症状が水俣病のものだと知らない人もいます。まだまだ隠れた被害者はいます。説明会や検診をたくさんひらき、あきらめている人を救済していかないと」。
水俣病とは?
公害病。化学肥料の生産を始めたチッソ水俣工場が、有機水銀を含んだ排水を1932年から不知火海に流し た。有機水銀は魚介類に蓄積、それを食べた地域住民が感覚障害、運動失調、視野狭窄、言語障害など中毒性の神経疾患に。1956年に患者の発生が確認され た。水銀中毒になり、障害を持って生まれた患者もいる。工場排水が原因と疑われても国・県は規制をせず、工場が生産をやめた1968年になって、国は排水 が原因と認めた。被害者は三次にわたる訴訟で、チッソと行政の責任、認定基準の見直しを迫った。1977年、国が認定基準を厳しくしたため、水俣病認定数 が激減。1995年、政府が出した補償、医療支援などの「解決案」をいくつかの被害者団体が受け入れたが、関西では、不十分として訴訟を継続していた。 1965年には新潟でも「水俣病」が発生した。
(民医連新聞 第1356号 2005年5月16日)