9条は宝 発言(3) ふたたび胸さわぎが発言しないと危ない
今回は民医連の医師の発言です。
沖縄・辺野古に行ってきた青年職員の報告を聞いているうちに、なぜか熱いものがこみ上げてきました。思わず、自分と沖縄のことを語りました。
私が少年のころ、米国の信託統治下にあった沖縄では、祖国復帰運動の集会やデモが行われ、事件も様ざま起きてい ました。原子力潜水艦の冷却水がもれ、那覇港の泥から高濃度のコバルト60が検出されたり、嘉手納からベトナム戦地に向かったB52が墜落し、核兵器が あった知花弾薬庫付近が炎上しました。「墜落した位置が少しずれていたら、私はここにいなかったでしょう」と話したんですよ。基地から神経ガスがもれた り、米兵の暴力事件、事故も絶えず、住民の不満が高まり、コザ暴動にまでなりました。
幼いころの記憶は鮮明でも、事件もデモも意味はわからなかった。大人になって理解しました。「あの時の、あのことか」と、自分の感覚と書いてあることが一致し、裏付けられました。
子ども心に、はっきりしていたのは、異常な不安、胸さわぎ、ただならぬ気配でした。
軍国化、弱肉強食、危険な方向
そして今また、あのころ身体で感じていたような不安を、強く感じるのです。PKOや有事法から「危ないな」と思っていましたが、「九条改憲」が出されるにいたり「ここまで来たか」という気持ちです。
いままで沖縄のことを封印していたわけではありません。沖縄を出て三〇年ですが、沖縄は自分の一部のようなものです。それを話すのは、自分の内面を話すのと同じだったからなんです。
医者としては、自分で言うのは何ですが、真面目な方だと思うんです。目の前の患者さんに誠心誠意つくすことが役割だと思ってきましたし、今もそうです。民医連は実践と運動の組織ですから「私は現場での役目を担おう」、と考えていたんです。
しかし、最近の動きを見ていると、「医療だけ一生懸命やっていればいいというわけじゃないな」と思うようになりました。小説家や、俳優とか、いろいろな職業の人たちが、「九条を守ろう」と、発言していますね。みんな「危ない」と感じているのです。
民医連の中だけでなく外の人たちに向かっても働きかけなければいけない。仕事に埋没していないで、発言もしていかなければ、本当に危ない。
ここ十数年、この国の方向は軍国化と弱肉強食へ向かっています。混合診療、介護保険、教育基本法、イラク派兵、 自己責任論…どれもそうです。マスコミが政府広報的になっていますから、このままの流れに任せると先は見えています。周りの人びとにいろんな機会で伝える ことがとても大事です。大げさな集会でなくても、家族との日常の話題にしていくことでも。
日米安保条約への怒り
いま、沖縄の記録を日本全体の歴史に関連させて整理しています。ヘリ墜落や基地問題など、沖縄では繰り返されてきました。憲法九条を変えようという動きも、ずっと続いてきたもの。
一九九五年に大田昌秀沖縄県知事が軍用地強制使用の代理署名を拒否しました。残念ながら国が起こした訴訟で負けました。当時の日記を見たら、怒りが書き連ねてありました。日米安保条約を破棄することでしか解決策がとれない中での、怒りです。
沖縄からずっと離れて暮らしていることに後ろめたさがあって、だからこそ真剣に考えてもいます。沖縄の事件の報道にも、「こんなことをなぜ淡々と書くのか、ちゃんと書いてくれよ」と思います。もう怒りを通り越して、淋しいような気分ですけど。
実は、宿題があるのです。親がどんな体験をし、どう考えていたか、正面から具体的に聞いたことはないのです。数年のうちに果たさなければ。
社会に対するアピールは、人それぞれみなあるでしょう。私も院長という立場を大いに使わせてもらって、機会あるごとに発言しようと思います。
具志堅 進さん(外科医)
1954年沖縄生まれ。長野・松本協立病院院長。中信勤医協の職員学習会で初めて沖縄問題を語り、「学習を力に、想像力をもって時代を切り開こう」と訴え、感動を呼んだ。
(民医連新聞 第1354号 2005年4月18日)