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民医連新聞

民医連新聞

健和会の再建目の前に団結し学び合った12年 福岡・佐賀民医連

 福岡・健和会は一二年間の「民医連的再建」の努力がみのり、あと数年で債務超過を脱する見通しになりました。福岡・佐賀民医連の法人・事業所は、 健和会再建を「第一議的な課題」として支援するなかで学びあい、自らも前進してきました。県連の活動交流が盛んになり、各法人が医療・福祉複合体への「転 換」をすすめ、病院機能評価を受審、医療安全・質の向上も図り、経営も良好です。その秘密はどこに? 再建に携わってきた県連三役のみなさんに、歩み、思 い、教訓などを語ってもらいました。

塩塚…健和会問題が起きる前は、県連内はどんな状況でしたか。
熊谷…二〇年ほど前、私が学生のころ、三法人から別べつに誘いがあるようなふうでした。仲間では「就職先は違っても、お互い『県連に結集してがんばろう』」と話していたものです。
山田…僕が研修医だったとき、県連に「青年医師の会」が再建されました。そのころ先輩たちは、「若手医師が中心になり、県連をまとめていこう」と決意していた。
熊谷…そこに「健和会問題」が起きました。

支援が絆を生んだ

山田…山梨勤医協の倒産のときも支援したけれど、健和会はもっと身近で、兄弟みたいなものですから。
熊谷…健和会支援が「第一義的課題」になりました。
徳永…私は当時、健和会の看護学校にいました。あのころ健和会の看護師はみな自信をなくしていました。
山田…だから、健和会の仲間は、「第一義的課題」と聞いて「すごく嬉しかった。勇気が出た」と言っていました。
徳永…健和会と他法人の人たちとの絆が生まれましたよね。
山田…支援の方針をみなが受けとめました。ウチの院長が向こうの院長になる、という支援でした。
田村…僕も大きな影響を受けた一人なんですよ。大手町病院がオープンした八四年に就職し、研修していた 一年目の二月に不渡りが出ました。僕は社会医学をやりたくて民医連を選んだのに、健和労働衛生研究所がなくなっちゃった。「どうしようか」と思っていたと き、民医連で九州社会医学研究所をつくる話が出て助かった。ですから、いま民医連の中でやりがいを貫けるのは、福岡と九州の民医連の団結のおかげなんで す。
徳永…いま看護師も生きいきと自信にあふれて仕事をしています。その姿を見ると、一〇年間の変化を感慨深く感じます。

「方針に団結しよう」

塩塚…何が一番変わったのでしょうか。
橋口…かつて福岡・佐賀民医連には、「人に団結する」傾向があったのですね。それが「方針に団結する」ように変化しました。
鮫島…医師支援でもルールをつくりました。まず健和会に誰が行くか決めて、そのあと他の配置を考える。その医師配置のルールは医師政策にもりこみました。
橋口…県連長計や県連の医師政策をつくりました。それに団結する風土ができてきました。
塩塚…県連理事会も変わったと思います。県連が方針を立て、各法人はそれを具体化して実践するというふうになってきました。

互いの長所学び

熊谷…それと、支援に行き、自分の病院と違った環境で仕事したことでとても勉強になりました。苦労をともにしてお互いが共感できました。
鮫島…研修医も三つの法人を回るようになりました。すると「むこうで良いことしている。こっちでも入れ ましょう」と、改善提案が出てくるんです。大手町病院も含め、お互いに良い所をマネした。話し合いと人の交流が当たり前になりました。患者が増えたり、良 い変化が共有できるようになりましたね。
熊谷…県連の機能も見直されてきました。
橋口…「県連は一つ」という方針で、いろいろ可能になりました。

「民医連」を語った

熊谷…県連の役割が明確になると、「民医連」がわかりやすくなります。支援では健和会の職員に自信を回復してもらうことを心がけました。大手町病院には救急患者がバンバン来るわけです。「それを受けているみなさんは立派な民医連の活動をしているのです」と。
山田…民医連関係の交流会などは、大手町病院の近くで企画しました。
熊谷…共同組織を理解してもらい、地域訪問にもいっしょに行って、職員が活動にふれる機会にしました。
田村…大牟田市でひらいた労災職業病九州セミナーでのことです。民医連の四〇演題ほどの中に印象的な演 題があったんです。それで、「なぜこの報告を考えたの」と聞いたら、その職員は「日常の仕事をまとめただけ」と。「働く人の健康を考える」目は着実に育っ ています。それが民医連をささえていると感じました。

米国から指導医を

橋口…このほど医師研修指導のために、米国ニューメキシコ州からバーネット医師に長期指導に来てもらいました。米の山病院を皮切りに千鳥橋病院、大手町病院で、三週間ずつ回る予定です。こうしたことができるのも、県連の役割がまとまってこそ。
熊谷…彼は「ネイティブアメリカンの病院と民医連と似ているところがある」と話していました。そう聞いて、感激しました。彼は「患者さんの気持ちを捉えるのが医療だ」とも言います。
橋口…民医連綱領の英語版を渡しました。そしたら、「世界中の知り合いに紹介する」と言っていました。民医連は世界に通用する理念を持っているんですよね。

あらたな課題

塩塚…「健和会再建という歴史的な偉業をともに体験してきたことに、確信を持とう」と、県連総会で呼びかけました。県連の貴重な財産として今後に引き継いで前進したいですね。
熊谷…先日、理事会四役の合宿で、今後の「県連機能」とあらたな団結の軸について議論しました。ちょっと安心してしまわないように。
橋口…今後は医師労働の問題について、県連として状況をつかみ、対応していこうと考えています。
 臨床研修指定病院が三つになったので、統一的に運営し、高めていくことも課題です。また憲法、特に九条を守る運動をすすめたいです。
(聞き手・小林裕子記者)


 

座談会の出席者

会長
 熊谷 芳夫さん

副会長
 鮫島 博人さん
 田村 昭彦さん
 徳永三和子さん
 橋口 俊則さん
 山田眞一郎さん

事務局長
 塩塚 啓史さん


福岡・健和会再建の歩み
 一九八四年六月、過大で無謀な投資といわれた大手町病院が開院。翌八五年二月不渡りを出し、事実上の倒産状 態となった。同会の経営幹部は全日本民医連や県連の指導を受け入れず、九一年に資金繰りが破たん。九二年、公認会計士の調査、労組との共同、路線問題の総 括を条件に、民医連から支援が入り再建の道を開いた。
 全職員が経営の真実を認識、共有することを基礎に、県連も強力な支援を送った。九四年、大手町病院は閉鎖されていた病棟を再開、初めて黒字に。様ざまな問題を乗りこえ再建をめざしている。

福岡・佐賀民医連
 大法人(センター病院を持つ)が、北九州市の健和会(大手町病院)、福岡市の福岡医療団(千鳥橋病院)、大 牟田市の親仁会(米の山病院)。久留米市、北九州市、佐賀市に生協法人があり、薬局、福祉、研究所を含め計一七法人、七八事業所。常勤職員数二九八四人 (〇四年三月)。〇二~〇六年度の県連第四次計画にそって、健和会の民主的再建を引き続き重視し、経営、医師問題、組織運営改善など九項目を重点に、攻勢 的医療経営構造の転換をめざしています。

(民医連新聞 第1348号 2005年1月17日)