命によりそう介護・福祉(8) 「やりたい介護」先駆者となり開拓しよう
介護福祉士・河野敏教
入職六年目です。当院の前身の病院では、私たち七人を介護職として初めて採用しました。当時は手探りで悪戦苦闘する日々でした。今は介護職の仲間も増え、五六人になりました。
一番心に残っているのは、初めて担当した女性の患者様です。右マヒで痴呆があり、不穏が強く大声で叫んだり、たたくなど問題行動のある人でした。
期待と不安のなか、「患者様の側にいる時間を大切にしよう」と、頻回に病室に行き、コミュニケーションをとろう と努めました。そのためか、心が通うようになり、名前を覚えてくれ、「河野さんは?」「河野さんが来てくれてよかった」と言って頂けるようになりました。 このような患者様の言葉を聞きたくて、今もがんばっています。この患者様は、一年ほどして亡くなってしまい、病院で最初の涙を流しました。今もこの患者様 のことを思い出します。
私が介護職を選んだのは、小さいころから右マヒの祖母を介護する母と祖父の姿を目にしたからです。そのころから「僕はこんな仕事をするのかな」と感じており、自然と介護職への道を歩いてきました。
いま当院では、ケアワーカーも教育・業務などの委員会を主体となって担い、さらなる飛躍をめざしています。私は 業務委員長としてとりくんでいますが、どうすればどの病棟でも、同じ質の介護ができるかが、大きな課題です。また、介護の方向性が不明確だったり、病棟に より経験や仕事内容、考え方に差があるのも現状です。介護の質の向上のためにも、介護の組織を確立したいと考えています。
全国のジャンボリー仲間から、たまに「仕事を辞めたいと言っている介護職員がいる」との話を耳にします。理由は「やりたい介護ができないから」とのことです。
私たちも最初から「やりたい介護」が実践できていたわけではありません。私も弱気になった時もあります。でも「できないのはなぜだろう」と考え、「すすみたい道を切り開くチャンスなのでは」と切り替え、小さな事から少しずつとりくんで、今にいたりました。
介護職の位置づけが明らかになってまだ十数年。病院に導入されて、たかだか数年。やりたい介護ができないのは、考えてみれば当然です。あきらめず、理想を持って、私たちが先駆者となり開拓していきましょう。
昨年まで全国と県連のジャンボリーに関わっていました。人として、民医連職員として、介護職員として、成長できたのは、多くの仲間と出会い、語り、学べたからだと思います。思いを言葉にし、本音で語ることができれば、何でもできる。このことが私に勇気を与えてくれます。
今後もこのすばらしい仲間たちに負けないよう、介護の分野で輝いていきたいと思います。(福岡・戸畑けんわ病院)
(民医連新聞 第1341号 2004年10月4日)