原爆症認定一刻も早く 苦しみと願いを受けとめて 広島医療生協
被爆五九年目の夏。被爆者はいま、命をかけて、原爆症の認定を求める集団申請や訴訟に立ち上がっています。この訴訟を支援するため全日本民 医連被爆問題委員会は、医療の専門家として政府の原爆症認定の問題点を明らかにする「統一医師意見書」を準備しています。民医連の事業所でも職員が、被爆 体験を聞くなどのとりくみをすすめています。一九七七年からずっと患者さんの被爆体験を聞き書きしている広島から、レポートが寄せられました。
広島医療生協では毎年、二年目職員の研修の一環として、入院や外来に通院中の被爆者の人たちから被爆体験を聞いています。
職員二~三人のグループで、被爆体験を話してもらう依頼からはじめます。聞き取った内容は被爆体験を聞いた職員が文字に起こします。これは「証言」として当医療生協の「原爆被害者の会」が毎年発行する『被爆体験記・ピカに灼かれて』に掲載し、記録に残します。
『ピカに灼かれて』は今年で第二七集目。被爆者自らが編集し、出版を行っている唯一の被爆体験記です。
この研修で若い職員は、「医療生協がなぜ平和にとりくむのか」を考えます。
いまだに辛い思いをしながら語る人、多くを語れず苦しみと悲しみの中で毎年静かに八月六日を迎える人。被爆者の多くは既に亡くなっています。こうした人たちの側に身を置き、自分を見つめ直すと、今なお世界のあちこちで「戦争が続いている」ことに怒りを感じます。
左に紹介するのは、一被爆者の体験と、その証言を聞いた若い看護師の感想です。
広がる訴訟支援
当医療生協では広島共立病院の開院時から被爆者医療に携わり、平和の活動をすすめてきました。苦しみながらたたかい続ける被爆者とともに、「黒い雨が降った地域」の証言の収集や、海外に住む被爆者の渡日治療にもとりくんでいます。
広島地裁には七月現在、原爆症認定集団訴訟で、四五人が提訴しています。そのうち二人が昨年亡くなりました。
当地では「原爆症認定を求める集団訴訟を支援する広島県民会議」(略称「原爆訴訟を支援する会」)がつくられ、民医連もメンバーに入り、外科医とSWを中心に参加しています。
また、県内のさまざまな機関で働くSWや研究者でつくる「原爆被害者相談員の会」があり、支援を申し合わせています。その会の一員として私も、昨年から「原爆訴訟を支援する会」の事務局員になりました。
被爆者の人たちとの話の中で、「安心して暮らせる明るいまちと平等な医療は、平和であってこそ」との確信が強まっています。
被爆六〇年を前にした被爆者の証言は、私たちへの最後の警告のようです。「体験した者にしかわからない…」と言われますが、私は証言を聞いた時の衝撃が忘れられません。
(谷岡美紀、事務)
証言 山根 茂さん(88)戦争は2度としちゃあいけん
二度目に出征したフィリピンのバター半島は、すごい戦闘だったんよ。わしは三五人の部下を連れて船に乗ったん じゃが、島はもう既に陥落しとった。友だちが「山根、この戦闘が終わったら、みんなで飲もうや」言うた。けど、そう言った友だちは腹を撃ち抜かれて即死 よ。わしも足を撃たれての、野戦病院へ若い部下が運んでくれた。けど、彼らはまだ元気じゃけえの。戦場に戻って行くんよ。青年が死ぬんじゃけえ。先がある のに、戦場で死ぬんじゃけえ。
三度目の召集で、広島市に来とったです。畑仕事が任務でした。その日はたまたま、宿舎を早く出て、原爆が落ちたときは爆心地から一・七kmのところの倉庫にいたんじゃ。
ピカーッと青く光って、その光が、スーッと近づいてくるんじゃ。わしゃあ「こりゃあアメリカが焼夷弾を落としや がった」思うての。窓から飛び出したんよ。どう出たかは覚えとらん。気づいたときには、大きな倉庫の屋根が、ぺシャーっとつぶれとったよ。倉庫から飛び出 たのは、五、六人くらい。他の一〇〇人もがみーんな、倉庫の屋根の下敷になってしもうた。何にもできんよの…。
しばらくしたら、女も男もみな裸で大やけどした人がの、ようけ歩いてきた。わしゃあ畑のトマトを採ってきてあげ たんよ。みんな取りに来て、「兵隊さん、もろおうてもええんですか」と言うたよ。「ええよ」言うたら、一人二個くらい持っていったかの。その人らもみんな 死んだんじゃろうて。かわいそうにの…。
その時は自分は体に異常は出てなかったし、命令も出なくて、家には帰れなかった。友だちは下痢などわけの分からない病気になって帰ったよ。わしの家に寄ってくれて家族に無事を伝えてくれたんよ。けどその友だちは家に帰ってすぐに、死んでしもうたんよ…。
原爆を落としたアメリカが、イラクで戦争しよるの。難しいことはわからんけど、戦争は二度としちゃあいけん。若い者が死ぬんじゃけえ。
初めて体験談聞いて平和の思い強めた(花本香織、看護師)
私の祖父も戦争体験者で、親族にも被爆者がいました。けれども体験を話してくれることはなく、直接このような話を聞くのは初めてでした。
学校での学習などと違って、生なましく感じました。特に、戦闘中の話や亡くなった友だちの話。即死した人、戦場 に戻っていった兵士、野戦病院の衛生兵は、皆私と同じくらいの年齢。私はいま仕事をして給料をもらい平穏に生活しているけれど、当時は召集も無償奉仕も、 空襲で命を奪われるのも当たり前のことだったのだ、とショックでした。
山根さんがトマトを、被爆した人たちにあげたとき、一人一、二個しか持っていかなかった。みなお腹が減って喉が渇いていたはず。そんな状況でも、助け合っていたのですね。
いまの平和の土台には、幾人もが命をおとした戦争があったことを、忘れずに生活したいと思います。
(民医連新聞 第1337号 2004年8月2日)