私と憲法(4) 戦争体験を子らに語る
長野 孝子(鹿児島医療生協・非常勤理事)
「私の叔母は赤十字の看護婦でした。あの戦争で赤紙(招集令状)が来て、生後六カ月の娘を残して、従軍看護婦として戦地に行き、帰ってきませんでした。 叔母は南方の戦線で、負傷した兵士に自分の血液を打ち続け、とうとう動けなくなって死にました。ポケットには娘の写真が入っていました。復員した兵士の話 から叔母の最期を知りました」。
昨年一二月、市内の小学校で、六年生一七七人に「戦争体験文集」から三人の体験を語りました。じーっと聴いている子どもたち。目頭を押さえる女の子もいました。
組合員の自主活動として、「核兵器完全禁止と平和をめざす会」では、様ざまなとりくみをしています。その一つが「戦争体験文集」の発行で、今年で二〇号を数えました。
広島の体験、外地からの引き上げ、鹿児島の大空襲など…、今までに一〇〇人あまりの組合員が生なましい体験を記し、語りました。四歳の時の記憶が忘れられない人もいます。
戦争に悲惨さ、愚かさ、人間が人間でなくなる戦争は、イラクの現状が物語っています。イラクの子どもたちの姿が、私の幼いときと重なり胸が痛みます。ア ジアだけで二〇〇〇万人を超える死者を出した第二次世界大戦の、筆舌に尽くせない犠牲の上に手にした平和憲法です。
戦争体験文集は語ります。「二度と戦争はやってはいけない」「子や孫につらい思いをさせてはいけない」と。それは九条に通じています。
「自衛隊は存在しているのだから」、と憲法を「現実に合わせる」危険な論調が強まっています。私たち国民一人ひとりの意思表示が何よりも大切です。
微力であっても無力ではない草の根のとりくみが、政治の危険な動きを見抜く力をつけ、やがては平和を守る大きな力になることを確信して、運動をすすめたいと思います。
(民医連新聞 第1333号 2004年6月7日)