ホームレスの自立支援 家さがし、治療、仕事おこしをともにすすめて
ホームレスに医療や自立支援をはじめている民医連事業所が各地でうまれています。厚生労働省が昨年初めて行ったアンケート調査でも明らかな ように、不況の影響で働く場を失い、生活の基盤も家も失い、路上生活を余儀なくされる人は、特殊な話ではありません。私たちはどう関わっていくか…神奈 川、福岡、宮崎の3県からのレポートです。
神奈川・平塚診療所
『命を大切にします』診療所の医療・福祉宣言を実践
「これが受診したホームレスの人たちの記録です」。川本修三事務長が広げた一覧表には、この一年間にかかわった 二〇人のメモがありました。病状や生活歴のほか「砂防林」「駅改札横」「公園」といった「居住地」なども書き込まれています。平塚市内にいるホームレスは 約一三〇人ですから、診療所はその約一五%にかかわったことになります。ホームレスの支援をするボランティア団体とも連携、川本事務長はそのパトロール行 動にも参加しています。
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「昨年一月に二人のホームレスが来院したことが、契機になりました」と川本事務長。一人はガードマンの仕事をリストラされ、三年間路上生活を送っていた四〇代の男性。てんかんの意識喪失を起こした時、知り合いだった診療所の元患者さんが連れて来ました。
もう一人は糖尿病の既往があった五〇代男性。三〇年働いた会社をリストラされ、職を転てんとするうち、アパート が取り壊されて住む場を失いました。ホームレスになっても「糖尿病手帳」は大切に持ち歩き、治療できないことを不安に思っていました。ボランティア団体か ら診療所を紹介され、来所しました。
診療所では二人の治療と併行して、平塚市の生活福祉課に治療費などの相談をしました。その対応は「本人が来ない とだめ」「住民票のないホームレスは生活保護の申請は不可」というもの。入院すれば病院を住所に、生保を申請できますが、入院が必要なほど病状が悪化する まで放っておけません。「制度がないから応えられない」という同市に、「医療費だけでも支給を」と何度も訴え、「法外援護」の扱いで、治療費が出ることに なりました。二人はその後まもなく、家族や昔の同僚などの協力も得てアパートを借り自立、生活保護を受け、治療を続けています。
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職員の間でも、この二人の経過や他のホームレスの受診状況などを話し合いました。生活保護が決まって「ああ良 かった! 診療所へ来たから、住む家もみつかり、治療もできるようになったね」と喜びあいました。またこのとりくみは「診療所の医療宣言に入れた『命を大 切にします』という項目の実践になった」と確認。
さらに同様のケースに出会った場合は、「お金がなくてもまず診療所で治療する」と伝えること、所在地を確認し、市に連絡する、と意思統一しました。
その後もホームレスの受診は続いています。「診療所は本当に地域の最後のよりどころ」と痛感する場面にも遭遇。 ガン末期で歩けないほどの人を、搬送先の公立病院は入院を拒否しました。市の生活福祉課には相談カウンターさえありません。「ホームレスとかかわったこと で知ったことは多いです」と川本事務長。毎年地元の民主団体と行っている要求行動の項目に、初めてホームレス健診の制度や緊急避難施設づくりなどの内容を 盛り込みました。
いま、ボランティア団体の人たちも、診療所のパンフレットをホームレスに渡し「体調が悪いときは平塚診療所へ」と知らせています。
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一年という短い間にも、市の態度は変わりました。「医療は最低限のこと、予算に関係なく支払う。請求してほしい」と、ホームレス患者の医療費は、連絡すれば支給されることに。
「課題はまだまだたくさん」と川本事務長。地域や共同組織の理解や協力をどう得るか、ホームレスの背景や、制度 の問題を学んで職員の目と構えをつくること。「いま、市民団体がやっているようなボランティア活動を、診療所を拠点に、生協組合員さんとするのが夢」と語 りました。
(木下直子記者)
福岡・中友診療所
友の会、職員でとりくんだ就労センターの立ち上げ
「自分たちで仕事を探し、仕事をつくろう」。昨年九月、福岡県大牟田市に就労センター「ありあけ」ができました。高齢者、障害者、そして、ホームレスを経験した人も参加しています。いっしょにとりくんだのが、中友診療所の職員や健康友の会の人たちです。
診療所のまわりは、一人暮らしの高齢者や生活保護世帯が多く、「市の就労指導がきつい」と悩む患者さんや、毎日 を医療機関と家との往復だけで終わらせてしまう無職の患者さんもいるのです。「そんな人たちが、生きがいを見つけ、自立した生活を送れるにはどうすればい いのか」と職員が話を出しました。
事務長の北園敏光さんがこう提案しました。「共同作業所のようなものがあれば、ボランティとして職員も参加でき るのでは」。そして、看護師長の宮田真由美さんや、併設しているグループホーム「ひまわり」の根本佐智子施設長とも半年近く話し合ってきました。それが、 就労センター「ありあけ」に結びつきました。
北園さんは言います。「診療所は、『最後のよりどころ』といっても、夜になれば職員は帰ってしまいます。日常的に生活相談など集まって話し合う場所があれば、地域でのいろいろなとりくみもすすむだろう、と考えたのです」
そして二年前、職員と友の会で、NPO「緑と健康を守る街づくりの会サンサン中友」を立ち上げました。資本金ゼロからの出発でしたが、ヘルパー事業が軌道に乗り、資金面での見通しがたちました。この経験が、「ありあけ」の誕生にも生きました。
「私たちは、署名や自治体交渉など行政への要求に力を入れてきました。ところが、いっしょになって何かをつくっていく経験があまりありません。ボランティア団体は、すでにいろいろとりくんでいます。民医連運動も発展させていかなくては」と北園さん。
「ありあけ」の参加者は、仲間とともに仕事をつくっていける喜びとやりがいを口にします。「働きたい」地域の人たちの『よりどころ』となっています。
宮崎医療生協
元ホームレスの患者さんとまちをまわって
宮崎医療生協では全職員学習会のテーマに、ホームレス問題をとりあげたことに伴い、ホームレスにきき取り調査を行いました。
調査には、元ホームレスの患者さんが協力してくれました。当院での入院をきっかけに、生活保護を受給、自立した人です。現在は個人ボランティアとして、ホームレスに差し入れや声かけをしてまわっています。
各職場によびかけ、一六人が調査に参加。五〇~六五歳ぐらいまでの五人の男性から話をききました。
「普通の人たちだった。自分たちが同じような境遇になってもおかしくない」というのが、職員の感想。想像していた垢や異臭はなく、ひと目ではホームレスに見えません。日雇いや板前として不安定な雇用にあった人たちが、現在に至っていました。
ホームレスの救急搬入を受け入れる病院は、市内でも当医療生協の病院以外に一つだけ。年七、八人と関わりますが、地域に出て声をかけるのは初めてでした。
いま、宮崎市内には数十人のホームレスがいると思われます(市発表では一一人、県に至っては「県内には三〇人に満たない」と少なく発表)。学習会を通じて、今後私たちにどんなことができるか、話し合おうとしています。
(民医連新聞 第1329号 2004年4月5日)