「時代」をつなぎ未来へ 青年が探訪する民医連の歴史
昨年、青年ジャンボリー(JB)全国実行委員会が呼びかけた「私たちのROOTSを探ろう」に応え、二五県連・五〇を超す事業所から、レポートが寄せら れました。これらをまとめた冊子は三六回総会で披露され、各事業所に配布されますが、道北勤医協では、青年たちが「自分たちの調査を全職員で共有したい」 と、「発表会」を開きました。全日本民医連創立五〇年を機にはじまったこの連載も今月が最終回。JB事務局の磯貝恵さんからの通信です。
“ぼくらも歴史に残りたいね”/ルーツ探って発★表★会!
「歴史を知りたい方、若手職員の成長を確認したい方、昔を懐かしみたい方、先輩の若いころを知って笑いたい方、 参加をお待ちしています」。一二月一〇日の「発表会」に向け、JB実行委員会は全職員に呼びかけました。お話下さった方たちも招待しました。忙しい時間を さいて貴重な話をしてくれたことに、お礼の気持ちを込めました。法人常任理事会の協力もあり、当日は職員、友の会あわせ約一〇〇人が参加。
JB事務局がとりくみを開始して、この日まで約三カ月。「ルーツを探る」のは、テーマごとに、九つ設定しました。発祥の地である「神楽ブロック」ほか、 「事務」「看護・介護」「技術」「宗谷ブロック」「在宅医療」「友の会」「保育園」「JB」の歴史を調べました。草創期の職員、友の会員へのインタビュー は、一年目と二年目以降の職員がペアで担当しました。事務局では、一応「これだけは聞いてきて」という項目と、依頼文をつくりましたが、アポ取りや発表方 法などは担当者が考えました。
緊張しながらも一生懸命インタビューしてまとめた内容は、寸劇やプロジェクターで発表しました。会場からは拍手や驚きの声があがり、昔の写真には爆笑 も。先輩職員も感想とともに草創期の思い、青年職員への期待や励ましを語り、いつの間にか歴史を見つめながら、未来を語り合う交流会の雰囲気になっていま した。
「私たちが生まれた時、道勤医協はすでに存在し、入職した時は、とても大きな法人になっていました。日々の業務に追われ、歴史をあまり意識せず過ごして きましたが、いま当たり前になっている夜間診や訪問看護は地域の人や職員の熱い思いから生まれたことを、自ら話を聞き自ら感じました。ここで働いている意 味を考えながら、これからの歴史をつくっていくのは私たちです」。
*神楽ブロック*
○青年…北海道勤医協が1970年代、医療構想で、旭川に診療所を建設することを打ち出した時、「ぜひやりたい」と受け止めた医師が、萩原信宏院長でした。1975年、旭川医院建設に向け具体的な運動が始まり、11月神楽の地に有床診療所(19床)がオープン。
医療過疎だった当時、外来患者は1日200~300人。昼食を5分で食べ、すぐに仕事に戻る日々。萩原医師は診療所の隣に住み、夜間の救急車にも対応し て、24時間診療しているような状態でした。医院建設に反対していた人の子どもが深夜病気になった時、どこにも診てもらえず旭川医院にかかり、それ以来大 ファンになったそうです。話を聞いて、今と違った大変さを感じました。自分も歴史に残るような職員になって、後輩に話せるようになりたい。
○先輩…私が入職した時と同じ年代の人が、「気持ちは先輩と同じです」と言ってくれるなんて、逆に「ありがとう」といいたい。みなさんといっしょに成長したいです。
*技術*
○青年…当時は若い集団で体力・気力もあり、業務終了後に地域に出て健康診断などもしていたけれど、全然ツライと思わなかったそうです。苦労もしたけど、つくりあげるおもしろさを感じていたのですね。スゴイ! と思いました。
○先輩…若い薬剤師だった私は、憧れて入職。一条通り病院の設計の時、薬局をオープンカウンターにしてもらったり、請求事務も、往診車の運転も、中断チームもやりました。多職種が協力しあって、みんなで成長していけるのが民医連です。
*宗谷ブロック*
○青年…93年秋に稚内で建設運動がスタート。開院後は連日80~90人の患者が来て、夜間診に60人も来ると終 わりは22時過ぎになったそうです。レスピレーターを付けたALSの20歳の患者さんを、地域と連携して受け入れ、この人は今も往診・訪問看護を受けなが ら、自宅で生活しています。思い出深い患者さんの話も聞きました。
○先輩…この地域の人は民医連の病院ができるのを30年も待っていたのです。懇談会で地域の生の声を聞いて、職員は建設の決意を固めました。「弱いものの立場で考えること」は民医連の原点なんです。
*友の会*
○青年…旭川医院を建てるための総資金7500万円のうち6400万円が友の会の人たちの拠出です。医療懇談会やサークル活動が盛んで、今は各地域友の会にパイプマンがいて、職員は常に二人三脚です。青年がもっと関わらなくては。
○先輩…「人と人の結びつきを大事にすること」が勤医協の出発点。「ふれあい」は地域の活性化や、再生に欠かせない。「勤医協があるから、ここに住みたい」といわれるような運動をつくっていきたいですね。
*在宅医療*
○青年…1976年、この地域で訪問看護をしている所は他になく、診療報酬がつかない時代でした。患者さんの「家に帰りたい」との願いを叶えたいと、自宅でじょく瘡を削ったり、訪問前に買い物をして行き、ご飯をつくったり。「民医連の原点」を感じました。
○先輩…「住民の健康を守る」という強い意志を持ちつづけよう。
*保育園*
○青年…当時の旭川には、0歳児の保育所はありませんでした。職員の結婚・出産も多かったので、勤医協の発展に保育園の存在は欠かせないものでした。出産した看護師と萩原院長の妻・洋子さんの自主的な活動が始まりでした。
○先輩…報告した田中さんは、私が入職したとき2歳でした。ここで対面できてうれしい。
*看護・介護*
○青年…5人で出発した看護師が、現在の170人を超える集団になる過程では、医師はじめ全職員の協力、北海道民医連からの支援で、教育や職場づくりに立ち向かってきたんですね。
○先輩…当時から、チーム医療も民医連の特徴なんですよ。糖尿病の患者さんのカルテひとつ見ても、多職種の関わりが読みとれます。今も続いていますね。
*JB*
○青年…1980年に道北JBが誕生。昔は先輩に「民医連を選んだ理由」を聞いたり、悩みの相談をしていました。 5年間も関わって育ててくれた先輩もいます。財源づくりで豚汁やコーヒーゼリーをみんなで作っていましたが、「仲良くなる」ことが本当の目的でした。これ は変わらないなあ。
○先輩…この発表会は、古い職員にとっても、ふり返りになってよかった。
(民医連新聞 第1327号 2004年3月1日)