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民医連新聞

民医連新聞

「時代」をつなぎ未来へ 青年が探訪する民医連の歴史

うまんちゅぬ(民衆の)力でつくった、わったあ(私たちの)病院

 昨年一〇月、沖縄で開催の第三〇回全国青年ジャンボリー。現地実行委員会のメンバーは、全国からの参加者 を迎える準備の合間をぬい、五〇周年企画「私たちのルーツを探れ」の展示ポスターを制作。沖縄民医連の歴史は、三〇年あまり。沖縄初の「民診」、沖縄民主 診療所(現・那覇民主診療所)開設時のスタッフのひとり、賀数藤子さん(59)に聞きました。(汐満忍記者)

占領下の沖縄は県民全員が無保険

 太平洋戦争末期、国内唯一の地上戦で二〇万人、住民の四人に一人が死亡した沖縄。戦後もなお、アメリカの占領下におかれ、二七年間、日本に復帰できませんでした。
 栄養状態の悪化と低劣な公衆衛生環境でマラリア、フィラリア、結核、性病など感染症が多発。米軍基地の排水が水源を汚染し赤痢も流行。生活困難は精神障 害をもたらし、米兵がもち込んだと思われる風疹の流行で、先天性障害児も生まれました。
 しかし、県民はすべて無保険でした。一九六六年給付開始の医療保険も、県民の四割しかカバーせず、しかも償還払いで手続きも複雑、数カ月後に戻る現金は 半分もないという制度。いずれにしても医者には多額の現金がなければかかれませんでした。

沖縄にも「民診」を

 一九六〇年に沖縄県祖国復帰協議会が結成され、運動が強まるなか、民診開設の準備が始まりました。しかし当時は、本土から医師を招くことは「外国からの技術導入にあたる」と米占領下の布令で禁止され、県内での医師確保も困難で途切れます。
 六八年に再開。東京の全日本民医連、援助を担当した九州民医連(当時)、沖縄出身の医系学生が学んでいた愛知、そして現地沖縄で…。
 当時のことを賀数さんは話します。
 「離島の保健師になりたくて、働きながら名古屋の看護学校に通いました。民医連との出会いは就職した南医療生協の診療所でした。後に初代所長となる島袋 博美医師たちと『沖縄民診協力愛知準備会』をつくり、建設資金カンパの街頭活動や、沖縄の医療について学習会をしました」。
 当時のことは、全日本民医連五〇周年の手記「わたしと民医連」に記されています(『民医連医療』〇三年一一月号、全日本民医連HP)。

急速に広がった「民診」の名

 一九七〇年一〇月、本土からスタッフ五人と現地の四人が合流し、沖縄民主診療所になる古い建物の整備を始めました。一二月一四日に診療所が開設。
 しかし患者は、初日六人、二日目一〇人、雨が降った三日目はゼロ。
 「現地の医療事情が悪いと聞いていたので意外でした。でも、開設のチラシをもって地域を訪ね歩くと、その理由が理解できました」と賀数さんは言います。
 受診するのに多額の現金が必要だった沖縄では「医者だけが儲けている」と根強い医療不信があったのです。
 「『風邪で』と医者に言えば『勝手に診断するな』と怒られる。夜間は居留守を使って患者を診ない。おまけに小さな医院でもベッドがあれば『病院』と看板 を掲げている。だから、診療所という名は、よっぽどのヤブ医者だと思われました。『住民の立場に立つ医者などいるものか』、とも言われました」。
 ところが、往診や、健診に積極的に出向く「民診」の名は遠くの地域にまで広まり、翌年から患者さんが殺到するように。
 そのきっかけとなったエピソードを、賀数さんは忘れられないと言います。「一月一二日の夜間診療に、九才の男の子が民診のビラを片手に父親の手を引っ ぱってきて『お母さんを助けて』と言うのです。すぐ往診すると、腎臓病の悪化と尿毒症で体中が腫れあがったお母さんが寝ていました。医療費を払えず退院 し、ずっとそのまま、とのこと。すぐ医療保護の手続きをとり、一日に三回の往診をしました。この方は一命をとりとめ、今もデイケアに通っています。当時 は、大人のほうがあきらめていたんですね」。

わったぁ病院ができた

 一九七二年五月、沖縄は悲願の本土復帰をとげました。一〇月、民診友の会から、沖縄医療生協を発足させ、一〇カ年計画で病院建設を打ち出します。七六年三月、沖縄協同病院開設、考えられない早さでした。
 「復帰して本土と同じ医療保険になったことや、革新県政だったこともあります。でも、民診と住民との出会いが医療不信の垣根をなくし、さらに『自分たち で健康づくりを』という医療生協の理念が地域に急速に受け入れられ、大きな力になった結果だと思います」。

「民医連を選んでくれてありがとう」

 賀数さんたちから創立の話をきいた青年からは「大先輩から『価値観がこれだけ多様化している時代に、民医連を選 んでくれてありがとう』と言われてとまどった」との感想が出されていました。「占領下の沖縄で“消される(殺される)かも…”との覚悟までして、民医連の 基礎をつくった先輩たちに、むしろ私たちの方がお礼を言いたいのに…」と。
 賀数さんは言います。「復帰前の沖縄での診療所開設には、いろんな困難もありました。でも、楽しかった。それはやはり私たちが若かったからできたんで しょう。当時、島袋所長が三〇代、私たちスタッフはほとんど二〇代。残っている記憶は、苦しさでなく、困難をスタッフや患者さん、地域の人たちと一つひと つ乗り越えてきたという充実感です。でも、米軍基地があり、イラク戦争や不況、社会保障の改悪など、沖縄の困難は今なお大きい。そんな時代に、私たちと同 じ道を選んでくれた、『若い力』に期待せずにはいられません。だから心から言えるのです。『民医連を選んでくれてありがとう』と」。

(民医連新聞 第1325号 2004年2月2日)