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民医連新聞

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病気のときは貧富の差別なく 『手記・民医連と私』

最優秀賞の森川百合子さん 看護師(香川・高松平和病院)

 「父を喜ばせることができ、何よりうれしい」と語る森川百合子さん(左)に、父・畑田秀夫さん(右)と手記にまつわる思い出ふかい話を聞きました。

 百合子さんと兄弟の三人の子どもを持ち農業を営む一家は貧しかったそうです。一九五〇年ころは発熱くらいでは貧しい家の子は医者にかかれないようなとき。

四歳の百合子さんの記憶に残るのは、肺炎になって平和診療所に連れて行かれ、「お金がないけん、注射はしないで」と言うと、看護婦が「それは権利なんだよ」と話してくれたこと。将来その人の下で働くことになろうとは思いませんでしたが…。

 百合子さんは中学校を卒業すると、兄に続いて働き始めました。開業医院に勤めながら准看護婦学校に通うことにしたのです。数年して友人に平和病院に誘われました。幼い日に出会った看護婦は百合子さんを覚えていてくれました。

 平和病院での再会はそれだけではありませんでした。

 面接してくれたのは、なんとかつて自宅に一カ月も逗留していた人でした。それも「弾圧」されて逃げ、かくまわれていた人。その事情が「病人の平等のためにがんばったため」だったことも、かくまった父の思いと正義感についても、百合子さんはだんだん深く理解します。

 弾圧事件のころ(一九五〇年代)、入院の時には自分の布団を持っていき、病院で煮炊きして食事するという状況で した。貧乏人は粗末な布団しか持参できず食事もみすぼらしいものでした。お金のある人は看護人も自分で付けることができましたが、貧しい人はそうはいきま せん。病院の中にいても貧富の差がはっきりと見えた時代でした。

 全国でこうした差別的な事態をなくそうと運動がまき起こり、五二年に「基準給食」が実現、五七年に「基準看護」が実現、六〇年の国民皆保険制度へすすみます。事件はこうした運動の過程で起きたものでした。

 「病気になった時くらい豊かな人も貧しい人も差別がない制度が必要だ。この制度は、民医連の先達たちの時代から、長くたたかって勝ちとってきたものだ」。これは百合子さんの信念になり、平和病院で仲間とともに運動にとりくんでいく中で、確固としたものに。

 慢性疾患管理、訪問活動、ぜんそく児キャンプ、震災支援。平和病院でさまざまな運動を経験ができたのは「仲間がいたから」とふり返る百合子さん。

 働き続けながら定時制高校を卒業、三九歳の時には高等看護学校に入学し看護師の資格を取得。「平和病院から進学した人は、みんながんばって、良い成績を取ったんですよ。私たちを通して平和病院が見られていると気負って」と笑います。

 母が亡くなったのも平和病院でした。心臓の病気で急死ともいうような死に面して、主治医は親近者がお別れをする時をもてるよう工夫してくれました。百合子さんは主治医に感謝しながら、この場面からも学びました。

 現在は健康管理部に勤務し、衛生管理者の資格を生かして、地域で健康相談ボランティアをしているという森川さんです。

(民医連新聞 第1315号 2003年9月1日)