「時代」をつなぎ未来(あした)へ 青年が探訪する民医連の歴史
川崎医療生協の発祥の地は、初詣で有名な「川崎大師」の門前町にある大師診療所。一九五一年に開設され、三年後に開設された四ツ角診療所と ともに病院化(大師病院)され、工業地帯に働く労働者と地域住民の生活と健康を守る“砦”として、「小児マヒから子どもを守る」「川崎から公害をなくす」 「老人医療費無料化」「革新市政誕生」の運動の拠点となりました。故・岡田久医師(初代所長で生協の初代理事長)とともに診療にあたった橋本卓医師に、和 氣幸子さん(大師診療所、看護師)と堀口理恵さん(川崎協同病院、MSW)がききました。(汐満忍記者)
“結核の権威”に請われて
橋本医師は、診療所開設から一三年目の一九六四年に、岡田所長に次ぐ二人目の常勤医として着任。両医師とも財団法人結核予防会に勤務していた経緯から、橋本医師が招かれました。
岡田所長は東京・清瀬市の結核研究所で乾燥BCGを開発した人。一九五〇年に全国に吹き荒れた「レッドパージ」 の中で一方的に解雇され、その後、川崎の池貝自動車を同様に解雇された労働者たちが解雇手当や退職金を出し合って準備した大師診療所の所長になりました。 労働者が患者として殺到し、当時非常に多かった結核の患者も“結核の権威”を頼って来院したそうです。東京・東村山市の結核療養所(保生園)にいた橋本医 師が請われて着任したのは、診療所の病院化が決まった直後の時期でした。
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橋本 結核患者も多かったが、内科全般を岡田先生が診てましたから、結核予防法に定められた定期検査や書類作成に手が回らないんです。だから私が着任して最初にやったのは、「結核特診」の設置と結核患者会の組織でした。
和氣 今の慢性疾患管理のスタイルの原形みたいですね。
堀口 川崎市内にそんなに結核患者さんがいたのですか?
橋本 多かった。でも、五一年に結核予防法ができ、ストレプトマイシンなんて特効薬もできましたから、ピークは過ぎてました。だから着任後、次に注目したのは慢性気管支炎やぜん息などの「公害病」です。
いつも川崎の工場労働者と地域住民を守る“砦とりで”として
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一九六〇年代の大師地区周辺には、多摩川沿いに日本コロンビア、味の素などの大工場、東京湾岸には日本鋼管など 昔からの工場群、千鳥町・浮島の人工島には新たに増設された大規模な石油コンビナートが。しかも石炭から石油への燃料転換期にあり、公害の主役は鉄粉・ス スの「黒い雪」から「見えない毒ガス」亜硫酸ガスへと変化していました。
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橋本 そのころ岡田先生が「重症の肺気腫がやけに多い」と言うんです。私も同じ印象を持ったし、六 三年には三重県で四日市ぜん息と臨海工業地帯から排出される硫黄酸化物との関連がマスコミで報道されていましたから、川崎でも大工場群から排出される亜硫 酸ガスが犯人だと推定できました。でも医学的にそれを立証し、患者さんや市民に訴えかける事は意外に困難でした。
「あなたも公害病なんです」
一九六六年、川崎医療生協では、地域班会で「屋根のトタンが腐る」「植木が枯れる」「洗濯物が汚れる」などが話 題となり、大師地域に公害対策委員会を結成し、発生源調査、被害調査、公害班会や地域学習会の組織、対市交渉などにとりくんでいました。対策委員会は結成 から四年後に、川崎医療生協の他、ぜん息患者の会や労働組合、法律事務所など一〇団体を含む「川崎から公害をなくす会」へと発展し、当時の大師病院がその 拠点となりました。
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橋本 公害対策委員会は市に対し、公害被害に対する医療費、生活費の補償を含めた六項目の要求を出 していましたから、ぜん息患者さんの運動への参加は不可欠でした。私は慢性気管支炎の患者さんに、冊子にまとめた調査結果を見せて「あなたも公害病なんで すよ」と説明するんですが、「私の病気は体質からきているんです」という人ばかり。最初は誰一人、自分が公害病だと認めませんでした。「川崎はエントツの おかげで栄えた」「工場あっての市民生活」という意識が染みついていたからかもしれません。
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しかし、地道な活動の中で目覚めた患者さんが一〇人、二〇人と増えました。対市交渉を重ねる中で、七〇年に川崎 市に公害認定を実施させ、数十人の患者さんが大師病院の医師たちと「集団申請」を行いました。これを契機に患者組織の「公害病友の会」(後に「公害病患者 と家族の会」)が発足します。発足時三五人だった会員は、三年後には九〇〇人になり、認定患者数の約半数を組織するに至りました。
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橋本 公害をなくす運動は当初、医療生協や労働組合が牽引していましたが、公害病友の会が発展する中で、公害病患者さんが先頭になっていきました。それが全市的な患者運動に広がって「川崎公害裁判」のたたかいにつながっていくんです。
和氣 私も医療班で裁判に同行したことがあります。
堀口 今でも医療生協の活動で大気汚染測定のとりくみがありますが、そのころから始まったのですか?
橋本 アルカリろ紙を筒状の物に入れて風が通るようにして、亜硫酸ガスの濃度測定をするんです。こ れは、公害をなくす会のメンバーに法政二高の化学の教員で宮崎一郎さんという人がいて、生徒や父母に広めていたものです。それを医療生協も市内全域でとり くんだんです。この宮崎さんと私とは、日本リアリズム写真集団川崎支部の仲間で、川崎の公害を写真で告発する活動もいっしょにやりました。この写真はマス コミでも取りあげられ、全国に配信されましたね。
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和氣 診療所には今も頸腕外来がありますが、それも先生たちが始めたんですか?。
橋本 そうです。銀行や損保の労働者、それに保育士さんたちが関東近県からも来ましたね。
堀口 今の川崎協同病院にひきつがれているものが、診療所の歴史にいっぱいつまっているんですね。
和氣 機会があれば、もっともっとお話をうかがいたいです。
(民医連新聞 第1313号 2003年8月4日)