「時代」をつなぎ未来へ 青年が探訪する民医連の歴史
僕たち、確信もって 朝日訴訟をささえました
岡山の療養所にいた結核患者・朝日茂さんが憲法25条が定める「健康で文化的な最低限度の生活」をめぐり 国を相手にたたかった「朝日訴訟」は「人間裁判」ともよばれ、社会科でも学びます。彼をささえた顔ぶれの中には民医連の先輩たちがいます。岡山の岩本陽輔 さん、八谷直博さん、池橋陽子さんの3人が水落理(みずおちおさむ)医師にききました。
(木下直子記者)
肌着は2年に1度パンツ年1枚の生活で
池橋 何がきっかけで裁判になったんですか?
水落 1956年、朝日さんにきた福祉事務所からの通達がはじまりです。「兄の居所がわかり、毎月1,500円の送金がくる。600円を朝日さんに渡し、残り900円は入院費の一部としてとりあげる。いままでの生活扶助の支給はうち切り」という内容でした。
当時、生活保護の人には月600円の「日用品費」が支給されていましたが、その額は肌着は二年に一着、パ ンツは一年に一枚しか買えず、ちり紙は一日一枚半使う分しか買えないというものでした。何度もつぎをあてた寝間着がゴロゴロで痛くて寝られなかったり、亡 くなった患者さんがでれば、寝具や着物、下着まで「すまない」と脱がせて使ったそうです。患者仲間に借金し、返済代わりに自分の食事を食べてもらう、とい うことまでありました。
さらに切実だったのは、療養所の食事が粗末すぎたこと。検食の医者が「こんなもの食えない」と怒るほどで、結核を治すためにには栄養を補う食べ物(補食)が必要でした。患者は、それを買うため内職をしたり、鶏を飼ったり、治療に集中するどころではなかったのです。
朝日さんは「重症患者には生活必需費としてせめて月額1,000円を認めてほしい。甘味料、卵10個、バ ター4分の1ポンドが買いたい」と、県知事、さらに厚生大臣に請求しました。しかし回答は「療養所の食事で十分」というもの。それで「憲法ですべての国民 に保障された、健康で文化的な生活を営む権利=生存権を侵害する」として生活保護行政の改善を求め、裁判に踏み切ったのです。
当時、労働科学研究所が発表した「大人一人が生きるために必要な額」は、「ただ命をつなげるだけの生存費=3,000円」「清潔を保ち、食事の楽しみもある、人間的な生活ができる最低生活費=4,000円」でした。
八谷 朝日さんは国立療養所の患者さんですよね。なぜ民医連の職員がバックアップしたのですか?
水落 裁判がはじまると、厚生省は医療関係者や学者などの専門家を証人に立てました。でも朝 日さんには、医療関係者の証人がいません。療養所職員は心で味方しても、法廷で証言する人はなかったのです。朝日さんは軽症のころ、医療生協のことを知っ て信頼してくれていたんです。それで僕ら水島協同病院に証人の依頼がきたのです。
池橋 色いろな職種の人が協力したのですか?
水落 もちろん。栄養士の大塚さんは、証人として法廷にたちました。療養所と水島協同病院の 食事を徹底比較し「療養所の食事で治療は無理」と指摘。厚生省は食事のカロリーしかチェックしていなかったんです。22歳の若さで緊張しただろうと心配し たのですが、彼女は「周りの人をナスやカボチャと思うようにしたから平気」と、大した度胸でした。「技術者として、正しいことをしている」という確信が あったのでしょう。
そういう頼りになる職員がいっぱいいました。
また寺坂医師は二審で、「生活保護患者の治療は、急行や準急のように優遇されず、三等鈍行のようなもの」 と証言。1958年当時は胃薬の使用さえ制限されていたことを告発しました(彼は朝日さんから「貧乏人のために働く医者になれ」といわれ、いまも民医連で 働いています)。
(民医連新聞 第1305号 2003年4月5日)