各職場に「宣言」貼り出し/ 患者さんから意見きく/ 長崎・上戸町病院 柴田親男(事務長)
当院では、今年1月に医療宣言を作成し、発表しました。
私たちは全日本民医連の方針を受けて、九九年ころから「作らねば…」という討議をしていたものの、「文章よりプロセスを大事にしよう」と言いながら具体的には遅々としてすすみませんでした。
大きな転機となったのは、2000年の県連学術運動交流集会です。ここで「部門医療宣言コンクール」を行うことになり、約2カ月の準備で大半の部門が 「医療宣言」を発表しました。賞品を励みにがんばった部門が多かったのですが、七夕の笹に川柳の短冊をつけたユニークな宣言を発表した薬局部門が優勝する など、それぞれ個性的なものがそろいました。
「宣言」というと堅苦しくとらえていましたが、「まず気軽に作ってみることが出発点」という考えに変わりました。
集会で発表した宣言は今でも各部門の前にはりだしてありますが、患者さんから感想や意見をいただくこともあり、職員の励みになっています。
しばらくは、リニューアル・介護保険対応などの論議に追われ、病院の医療宣言はなかなかすすまず、昨年秋の管理会議で「まずたたき台になる文章を作って意見を集めよう」ということになり、宮崎院長が担当して9月に原案ができました。
これを主任会議や共同組織に紹介したほか、院内ホームページにも掲載し意見を求めました。
職員からは、「カルテ開示」を検討していたこともあり、患者の人権に関する意見が多く寄せられました。また患者さんや地域の方がたにも「病院の過去・現 在・未来がわかるものにしたい」という思いも寄せられ、四回の修正をへて、一月に発表しました。
宣言には、被爆地長崎にある院所として、核兵器廃絶運動や被爆者医療のとりくみも明記しました。
まだまだ意見は少ないのですが、「まず公表して意見をもらい、また書き直そう」という構えで掲示しています。
したがって、当院の宣言はまだ完成ではなく、発展途上の段階です。共同組織からの意見集約はまだこれからですが、部門宣言とセットにしてもっと広く紹介し、版を重ねることができればと思います。
上戸町病院医療福祉宣言
かつて「鎖国の窓」として燦然と輝き、世界的な「造船の町」として日本の近代化を担った「美しい港町」長崎は、人類最後の被爆地ナガサキでもあります。
私たちの街・長崎には、終わりのない原爆被害に悩む人々、造船・炭坑塵肺など労働災害に苦しむ人々、不況にあえぎ健康管理もままならない人々、「坂と階段の街」の片隅に取り残されたように暮らしているお年寄りたちがいます。
その街を愛し、安心して住み続けたいと願う人々の運動と、「患者さんの立場に立った医療」を願う医系学生や医療従事者の運動が合流して、1972年に大浦診療所が誕生しました。
大浦診療所の10年間は、「被爆者に寄り添った医療」、「生活と労働の現場から考える医療」、訪問看護・往診・「出かけてゆく医療」など…長崎の医療に新しい風を吹き込みました。
そしてその信頼をもとに、1982年に「長崎民医連のセンター病院」として上戸町病院が生まれました。
私たちの病院は「救急からリハビリまでの総合医療」を掲げて、長崎南部地域における第一線病院として、また県内における「はたらく人々の最後のよりどころ」としての役割を果たしてきました。
これからも、健康友の会や地域のみなさんといっしよになって、「だれもが安心できる医療と福祉」を目標に、「住み続けたいまちづくり」に貢献したいと 願っています。そして全職員一丸となって、「地域になくてはならない病院」をめざすことを、ここに宣言します。
1いつでも、どこでも、だれでもが安心してかかれる医療と福祉を 2人権を守り、安全で安心な「共同の営み」としての医療・福祉を 3科学的根拠と民主的集団医療にもとづく最良の医療を 4安心して住み続けられるまちづくりの一翼を担います 5核兵器廃絶をめざし、被爆者の医療と福祉を発展させます |
(民医連新聞2002年10月1日/1288号)