全職場で『医療・福祉宣言』/『宣言』づくりで見つめなおした私たちの仕事(秋田民医連)
全職場で『医療・福祉宣言』
“つくってヨカッタ!”
『宣言』づくりで見つめなおした私たちの仕事
秋田民医連
全日本民医連は35回総会で「来年2月までに、すべての事業所で医療・福祉宣言をつくろう」と、呼びか けています。これにこたえ、各地で議論がはじまっています。秋田民医連では、院所・職場への呼びかけを強め、県連内の全職場・事業所74カ所で「医療・福 祉宣言」を完成、『宣言集』にまとめました。この宣言づくりを通じて、仕事のあり方を見つめ直した職場も少なくなかったといいます。秋田のとりくみを取材 しました。 (木下直子記者)
「劣悪化する医療情勢や、患者さんにどんな医療を提供していくかを立ち止まって考える重要な作業でした」と、と りくみの中心を担った同県連の前事務局長・庄司文男さん。「よびかけに応じてもらえないかもしれないと、心配になるほど困難な体制の職場もありました。必 ずしも全職場が、すんなりとりくめた、とはいえませんが、この作業は職員の視野の真ん中に患者さんを置くことをあらためて確認するものでした」。
渡辺淳・前県連会長(中通リハビリテーション病院長)は、「秋田県連全体で、一つの運動をがんばれた、という自信になりました」と、話します。
職場の困難を打開するきっかけに
【中通総合病院・医局】「宣言」冒頭には「患者さんの立場に立った医療を行うために、全職種の先頭にたつ」とかかげています。
「医療宣言づくりには大きな意味がありました。話し合いの中で、自分たちの共通の土台を確認し合えた」と当時の医局長・松田淳医師。「果たしてつくれるのか?」と心配された職場のひとつでした。
宣言づくりを呼びかけた当初は、否定的な反応しかありませんでした。医局の運営委員会のメンバーの声でさえ「つくっても役に立たない」「誰も読まない」と、消極的なものでした。
背景には、約80人という大所帯で、医師たちの問題意識も価値観も多様になっていることに加え、医師退職の問題が大きく反映していました。「明日患者さんをどうやって診るか?」というギリギリの体制でした。
「次つぎと医師退職が出るなか、医師たちの中に病院の運営に対する不信感や、無力感が充満していました。精神的にも肉体的にもたいへんで、『きれいごと をならべてもしょうがないじゃないか』と…」松田医師はふりかえります。「いまなぜ医療宣言をつくるのか考えてみよう」というところからスタートし、「大 切なのは、つくる過程ではないか?」と話し合いました。
「宣言は誰にむけたものなのか?」も整理しつつ、医局運営委員会で出した原案をもとに、「僕らは何をよりどころにして働いているのか?」「市内にある他 の総合病院と、我われの病院ではどこがちがうのか?」と、議論。皆の声を生かして形にする努力をしました。普段は人前での発言が苦手な医師からも思いがき けるようになるなど、すすめる側の松田医師自身、はじめはおそるおそるだった姿勢が、宣言づくりがすすむにつれて、自信をもってとりくめるようになったと いいます。完成まで五カ月かかりました。
「診療報酬や医療改悪、これだけ医療への攻撃が強められても、いい医療をやらなきゃ、という思いで一致できる仲間の存在が確認できたんです。このことを 通じ、医局の雰囲気も変化したようにも感じます。『医師は診察さえしていればいい』ではなく、病院や職場での役割も大きいことが再確認できた」と松田医 師。象徴的なのは医局会議への出席率。それまでは二、三〇人だった出席が、この春の会議では五〇人に。業務に入っている以外の医師はほぼ全員の顔ぶれがそ ろったことになります。
仕事を再確認する作業
【中通リハビリテーション病院】
同病院の「宣言」は、開設から四半世紀にあたる年、院内のスタッフと渡辺院長がまとめた文書がベースになっています。1969年、脳卒中の患者会の願い で開設され、患者や家族と協力しあいながらあゆんできた病院の歴史が語られています。リハビリテーションを「障害のある人たちの『生命の質』『生活の質』 『人生の質』を豊かにするもの」と考え、仕事をすすめよう、と宣言。
この「宣言」は病院のホームページ上で紹介、また院内にもはりだすことで、患者さんから『宣言していることと、やってることがちがうじゃないか』と言われるわけにはいかない、と日常の仕事に緊張感が生まれているそうです。
【大曲訪問看護ステーション】
「雨にも負けず/風にも負けず…」
ユニークな宣言がひときわ目をひいた大曲訪問看護ステーション。事業所としての宣言はすでにつくってありましたが、「私たちらしさがでてないね」と声があがり、東北の詩人・宮沢賢治の代表作を「替え歌」しました(全文は左上に)。
「訪問看護師やヘルパーさんたちと、『んだ、んだ』と言いながらワイワイつくりました」と、佐々木アイ子所長代行。書き込まれた患者さんとのやりとりは、すべて実話です。
「冗談にみえるかもしれないけれど、雨にも吹雪にも負けずにつづけている自分たちの仕事と、これからの目標を再確認する作業でした」。
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同県連が本格的に宣言づくりに向かったのは、約二年前。あらためてアピールも出しつつ、イメージづくりのために 他県の院所でつくった宣言などを機関紙で紹介しました。全職場の九割方が集まったところで、中間集約版の宣言集を出し、なかなかとりくみがすすまない職場 を励まし、全職場の宣言が完成するまでにこぎつけました。
今後は2年に1度のめどで見直しをしつつ、県連総会前に宣言集をまとめてゆく計画です。
「いい時期に医療宣言づくりをさせてもらえたな、と思います」という松田医師の言葉が印象的でした。「医療情勢が厳しくなったり、忙しくなれば、自分た ちの原点は置いてきぼりにしがちです。そんなとき、この宣言が『待て待て』と引きもどしてくれる存在になれば」「楽観的に聞こえるかもしれませんが、この 宣言を失わない限り、ぼくらの病院は大丈夫だと思えるんです」。
(民医連新聞2002年08月11日/1284号)
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