• メールロゴ
  • Xロゴ
  • フェイスブックロゴ
  • 動画ロゴ
  • TikTokロゴ

いつでも元気

いつでも元気

9条の碑 百年後の予言

文・新井健治(編集部) 写真・大橋愛

除幕式に集まった地域住民

除幕式に集まった地域住民

茨木診療所

大阪で初めて、9条の碑が民医連の茨木診療所(茨木市)に建ちました。大阪は憲法9条発祥の地とも言われます。建立に込めた思いとは。昨年11月24日の除幕式を取材しました。

 

発祥の大阪に初の9条の碑

 阪急・茨木市駅から西へ徒歩5分ほど。昔ながらの「阪急本通商店街」のアーケードをくぐると、正面に茨木神社の鳥居が。参道の隣にあるのが茨木診療所です。
 除幕式には地域住民ら200人以上が駆け付けました。診療所の敷地をあふれ、道路にはみ出すほど。ちょうど七五三のお参りで茨木神社へ向かう車が頻繁に通り、交通整理も大変です。
 茨木診療所は1955年3月、地域住民の「自分たちの診療所がほしい」という運動の中で生まれました。木造の元芝居小屋を改造してスタート、65年に鉄筋に、昨年4月には新築3階建てとしてリニューアルオープンしました。
 「いばらき健康友の会」の内野勝夫会長は「元の古い建物を知っている人は『え、これが茨木診療所?』と驚きます。今年はちょうど創立70周年。節目に診療所の新築と9条の碑ができたことは何よりの喜び」と語ります。

碑は本のカタチ

 9条の碑は高さ75㎝、幅90㎝。前面に憲法9条全文、裏面に民医連綱領の一節が彫ってあります。側面には「日本国憲法は世界平和の指針」とあります。
 診療所の安達克郎所長は「茨木に九条の碑を建てよう会」代表として、碑前面に「茨木・九条の碑」の文字を自ら彫りました。「政府は大軍拡を進めるが、軍事対軍事では平和を守れない。9条の碑で地域から平和の声を発信していきたい」と言います。
 診療所の運営法人「淀川勤労者厚生協会」の長瀬文雄理事長補佐は「いのちの平等を掲げる民医連が、大阪で真っ先に9条の碑を造った。大阪各地に碑を建てるきっかけになる」と喜びます。
 「憲法9条を発案したのは、大阪府門真市出身で元首相の幣原喜重郎。9条発祥の地、大阪で初めて9条の碑ができた」と語るのは、除幕式で挨拶した国際ジャーナリストの伊藤千尋さん(詳しくは4~5ページ)。「この碑は本の形をしています。平和に加え文化の概念も込めた画期的な形状。ぜひ、多くの皆さんに見てほしい」と言います。

地域住民とともに

 診療所の新築と9条の碑建立を事務局長として支えたのが、診療所職員の藤野俊弘さん。「何もかも初めて。資金は集まるのか、果たして事業は成功するのかとドキドキしました」と振り返ります。
 診療所の新築に向け、地域訪問やタウンミーティングで地域住民の意見を取り入れたため、設計図を30回以上も書きかえました。
 1階に診察室、2階に訪問看護ステーションと居宅介護支援事業所があり、3階の健康増進センターでは友の会13サークルが活動しています。友の会の内野会長は「健康づくり、仲間づくりを目標に、サークル活動をさらに活発にしたい」と今後を見据えます。
 9条の碑建立に向け、資金を集めるだけでなく3回の学習会を開催。こうした運動のなかで、目標の300万円を超える340万円が集まりました。「学習会には計500人以上が集まり、確信になりました」と藤野さん。

ゼロ歳から百歳まで

 診療所に隣接する茨木神社は807年の創建。1330年代に楠木正成が築いたとされる茨木城の搦手門が、神社の東門として残っています。
 古くから栄えた茨木市。ノーベル賞作家の川端康成が、3歳から18歳までを過ごしたことでも知られます。
 茨木に九条の碑を建てよう会は除幕式まで1年3カ月の間、世話人会や事務局会議を31回も開催。藤野さんは「会議のなかで職員や友の会会員から『市内には川端康成文学館がある』『本の形にしたら重みが出る』などの意見が出て、石碑も本の形にすることに決まりました」と言います。
 街の中心部にある茨木診療所ですが、過去には何度か経営危機に陥ったことも。安達所長は「住民の皆さんに支えられて、ここまできました。ゼロ歳から百歳まで診る診療所として、今後も地域に根付いて医療を続けていきたい」と話しました。

 


 

文 新井健治(編集部) 写真 大橋愛

伊藤千尋(いとう・ちひろ)  国際ジャーナリスト、元朝日新聞記者。全国の9条の碑建立にかかわる。『非戦の誓い 「憲法9条の碑」を歩く』(あけび書房)など著書多数

伊藤千尋(いとう・ちひろ)
国際ジャーナリスト、元朝日新聞記者。全国の9条の碑建立にかかわる。『非戦の誓い 「憲法9条の碑」を歩く』(あけび書房)など著書多数

百年後の予言
憲法9条とは何か

改めて憲法9条の持つ意味とは。茨木診療所の9条の碑除幕式で講演した
伊藤千尋さんのお話をもとに考えました。

 憲法9条を発案したのは戦後2番目の首相、幣原喜重郎だった。幣原は「原子爆弾ができた以上、世界の事情は根本的に変わった。戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。軍縮を可能にする方法は世界がいっせいに一切の軍備を廃止すること。ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだ」と語った。
 〝憲法はアメリカの押し付け〟と主張する人がいる。果たしてそうだろうか。幣原は当時、日本を支配していたアメリカのマッカーサー元帥に進言、(憲法9条を)「命令として出してもらうよう決心した」と振り返る。 
 終戦直後、まだ軍国主義が色濃く残る時代。首相自らが非武装を言い出すことはできなかった。「一歩誤れば国賊の汚名を覚悟しなければならぬ」「憲法は押し付けられた形をとったが、当時の実情として、そういう形でなかったらできなかった」と幣原は言う。
 マッカーサーの回想記にはこうある。「幣原は最後に『世界は私たちを夢想家と笑うでしょう。でも、百年後には予言者と呼ばれますよ』と涙ながらに語った」。

非戦の誓い

 新聞記者時代の特派員を含め世界82カ国を取材した伊藤さん。訪れた国で日本人の伊藤さんに対し「今度はアメリカにやり返す番だろ」と言われた。〝やられたらやり返す〟〝力には力で〟と考える人は、世界にはまだまだ多い。
 しかし、私たち日本人はそうではない。なぜだろうか。日本国憲法前文には「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とある。
 憲法9条も単に日本が武力を持たないだけでなく、国際社会が武力で物事を解決する道を拒否する〝非戦〟の考えが根本にある。「原子爆弾で世界の事情は根本的に変わった」と幣原が語ったように、原爆の悲惨な経験は日本人の心に深く刻みこまれている。
 昨年、ノーベル平和賞を受賞した被団協(日本原水爆被害者団体協議会)は、結成大会(1956年)で「私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合った」と宣言した。
 〝9条で国が守れるか〟と主張する人もいる。ウクライナ、ガザなど、いまも戦禍が絶えない国際社会。憎しみの連鎖が続く世界で、伊藤さんは「日本人が〝やり返す〟発想に立たないのは9条があるから。9条は国を守り、国を超えて人類を守る」と言う。

碑に〝いのち〟の概念

 最近は9条の碑の建立ラッシュだ。全日本民医連が創立70周年(2023年)の記念事業として後押ししたこともあり、昨年できた17基のうち10基が民医連と共同組織が中心になって建てた(表)。民医連関係の碑は22年以降だけで13基完成し、誌面で紹介してきた(今号32ページにも掲載)。
 伊藤さんは「従来の平和を守る目的に加え、9条の碑に〝いのち〟の概念を吹き込んだのが民医連の運動。ほかにも人権や文化の概念が加わり、より豊かな運動になっている」と指摘する。
 記念碑は一般的に、過去の業績を顕彰するもの。だが、9条の碑は「現在と未来を照らすもの」と伊藤さん。「昨年10月の衆院選までは国会で改憲派が多数を占め、政府はいつでも9条を改憲することができた。でも、それを許さなかったのは、私たちの力です」。

 憲法施行は1947年5月3日。幣原が予言した百年後は2047年。果たして憎しみの連鎖は終わっているのか。核兵器は廃絶されているのか。非戦の誓いを世界に広げる運動にかかっている。

1956年に内閣が設置した「憲法調査会」事務局資料より要旨を抜粋

下表は昨年12月現在、赤字は民医連関係
※伊藤千尋さんの資料をもとに編集部で作成、南から都道府県順。建立主体は略称を使用した
※碑の材質は石が多いが、33と42はステンレス製、44は建造物、45はアクリル板、46はアルミ複合板
※建立を計画中の碑の所在地 長崎市、福岡県北九州市(健和会)、岡山市、京都府京丹後市(たんご協立診療所)、長野県松本市(松本協立病院)、長野市、千葉県佐倉市、茨城県土浦市(以上は5月3日までに完成予定)。山口県下関市、和歌山市、大阪府八尾市、山梨県甲府市、埼玉県(越谷市、狭山市、東松山市)、神奈川県藤沢市、千葉県市川市

いつでも元気 2025.2 No.399