戦後80年 いま、語らねば
池野京子さん(86歳)(北海道・苫小牧健康友の会)
今年は戦後80年。
いまこの時を新しい戦前にしないために、
読者の戦争体験を紹介します。
満州 終戦直後の惨劇
私は1938年に北海道釧路市で生まれました。父の仕事の関係で4歳の時に満州の奉天市 (現・中国瀋陽市)に一家で移住し、その年に妹も生まれました。
住んでいたのは日本人だけが暮らす30軒ほどの集落。父は満州鉄道社員で、比較的裕福な家庭でした。私が尋常小学校に入学する頃には、女学校までの制服を買いそろえていたのを思い出します。一家4人、何不自由ない暮らしが続くことを信じていました。
ところが、太平洋戦争末期の44年ころから奉天も空襲の標的となります。私と妹は叔父一家を頼り、奉天から北東に600㎞離れた敦化市に疎開。その直前に父は兵隊にとられ、母は家を守るために奉天に残りました。
叔父は日満パルプ製造(王子製紙子会社)敦化工場で働いていて、夫婦と子ども2人の4人で工場の社宅に住んでいました。そこには当時、260人の日本人が暮らしていたそうです。叔父も叔母もとても親切で、現地の中国の人々とも信頼関係を築いており、つかの間の安息を得ることができました。
しかし疎開の翌年、私たちはこの世の地獄を体験することになります。私は7歳、妹は3歳でした。
ソ連軍の侵攻
1945年8月9日未明、突如としてソ連軍が満州に侵攻。15日の終戦後も侵攻は止まず、19日には敦化市内に及びました。敦化郊外で陣を築いていた関東軍敦化守備隊はなすすべもなく、私たちが暮らす社宅もあっという間に占拠されてしまいました。
8月25日、叔父を含む16歳以上の男性は10㎞離れた飛行場に連行され、残された女性と子どもは独身寮に監禁されました。私と妹、叔母とその子ども2人は、10畳ほどの部屋に30人近い人たちと一緒に詰め込まれました。外では機関銃を持ったソ連兵が監視していて、トイレ以外は部屋を出ることもできません。人いきれと真夏の暑さで、室内は灼熱地獄でした。
その日の夜から、ソ連兵たちの恐ろしい狼藉が始まりました。金品の略奪、暴行、そして強姦。次々と部屋から引きずり出される女性たちの悲鳴。絶え間ない機関銃の銃声。夜が明け、昼になり、また夜が来ても終わらない蛮行に、絶望した大人たちは死に救いを求めました。
毒を飲んで寮に火をつけようという声がわき起こる中、叔母は「死ぬのはいつでも死ねる。もう少し待ちなさい」と反対します。しかし、周囲の人々が思いとどまることはありませんでした。火をつけることだけは止められたものの、集団自決をすることが決まってしまいました。ただ1人、ある少年だけが「僕は死にたくない!」と壁を叩いて、必死に抵抗していたのを覚えています。
私たちの部屋にいた看護婦さんが、持っていた青酸カリを大人たちの手のひらに配りました。妹はせがむようにして無邪気にそれを舐め、見る間に倒れました。体中に紫色の斑点が浮かんでいました。私も、早くここから逃れたいという思いで毒を口に。その時に「天皇陛下バンザイ!」と言ったと記憶しています。私はあまりの苦しみに暴れてのたうちまわり、柱に頭をぶつけて気を失いました。
叔母も服毒し昏倒しますが、自決に反対していた少年に揺り起こされ、水を大量に飲んだために大事に至りませんでした。叔母は倒れている私を発見してすぐに水を飲ませました。私は水を吐き出しながら、息を吹き返したそうです。
叔母の子2人も一命を取り留めましたが、その部屋にいた23人が亡くなりました。隣の部屋ではカミソリで手首や首を切って死んだ人たちが、折り重なって血の海の中に倒れていました。
私のたった1人の妹の命日は、1945年8月26日です。
発疹チフス
生き残った私たちは男性が連行されていた飛行場に移され、冬になると大きな集会所のような建物に収容されました。そこでは、不潔な環境と栄養失調から発疹チフスがまん延。私も40度以上の高熱が何日も続き、全身が赤くただれて足も曲がったまま伸びなくなりました。半年ほど身動きができず、床ずれもできました。頼りにしていた叔父も感染し、春を待たずにこの世を去りました。
46年の8月ごろ日本への引き揚げが決まり、無蓋車(石炭などを積む屋根のない車両)に乗り込んで葫芦島市へ。敦化を出発してから1カ月以上もかかって、日本の舞鶴の地を踏むことができました。その後、先に帰国していた母とは再会できましたが、父は終戦の年の8月7日に病死したと聞かされました。出征前に肩車をしてくれたことが、父との最後の思い出です。
◇
いま私は、子どもや孫たちに囲まれて幸せに暮らしています。でも、白い粉薬はあの恐ろしい青酸カリにそっくりで、飲むことができません。ウクライナやガザの惨状をテレビで見ることもできません。戦後80年経ったいまも、心の傷は癒えていないのです。
亡くなったいのちと、一生消えない心の傷。このことは、いつまでも語り続けなければなりません。
(池野さんの手記を編集部で加筆、修正しました)
池野京子(いけの・きょうこ)
1938年、北海道釧路市生まれ。7歳の時、満州で終戦を迎える。帰国後はバスの車掌や保険外交員、飲食業などで働き、3人の子どもを育てる。現在は近隣の中学校を中心に戦争体験の語り部活動を行う。苫小牧市在住。
いつでも元気 2025.1 No.398
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