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いつでも元気

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震災から半年 能登半島地震

文・新井健治(編集部)写真・五味明憲

仮設住宅「宅田町第1団地」を訪問した杉本満さん、新留風太さん、佐渡麗子さん(左から)。新留さんは石川民医連事務局支援として全日本民医連から出向してい

仮設住宅「宅田町第1団地」を訪問した杉本満さん、新留風太さん、佐渡麗子さん(左から)。新留さんは石川民医連事務局支援として全日本民医連から出向している

元の生活を取り戻したい

 元日の能登半島地震から7月1日で半年。
 7月8、9日に石川県の輪島市と珠洲市(すずし)を取材した。

狭い仮設住宅

 7月8日、雨のなか輪島市のプレハブ仮設住宅「宅田町第1団地」を訪れた。間取りは6畳の居間ひとつと風呂、トイレだけ。居間にはもともと押し入れがついており、このスペースを除くと、わずか4畳半ほど。「狭すぎて、日中は危険を承知で自宅に戻る被災者も」と話すのは、同行した石川県健康友の会連合会の杉本満会長。
 友の会奥能登ブロック会員の田中輝夫さん(83歳)と典子さん(77歳)夫婦は、仮設住宅から約10㎞離れた輪島市大沢町に自宅があり、息子夫婦と8人の大家族で暮らしていた。「『じいちゃん、ただいま』と帰ってくる孫と一緒に、夕飯を食べるのが楽しみだった」と輝夫さん。「仮設は居間ひとつだけ。夫婦といえども、一日中顔を突き合わせているのは…」と苦笑する。
 大沢町は地震で一時、孤立集落になった。田中さん夫婦は1月10日に自衛隊のヘリコプターで救助され温泉旅館に3カ月、羽咋市のアパートに1カ月避難し、5月から仮設に入居した。大沢町はまだ、電気も水道も復旧していない。
 杉本会長は「仮設住宅に入居すると、避難所では受け取れた食料の支援はない。水光熱費も自己負担。仮設は全て〝自己責任〟になり、被災者は大変な思いをしている」と指摘する。
 仮設に入居できず、ビニールハウスで避難生活を続ける人もいる。輪島市長井町の保 靖夫さん(70歳)は友の会員。自宅が全壊し、妻や近隣住民とともに農業用ビニールハウスで暮らしている。
 取材した日は梅雨の最中だったが、間もなく猛暑が来る。ハウスの中は蒸し風呂のようにならないか心配だ。「いつになったら仮設住宅に入居できるのか、市からは何の連絡もない。集落からまるで櫛の歯が欠けるように、バラバラに仮設住宅への入居が始まっており、不安だけが募る」と話す。

被災者の健康を守る

 1月4日から診療を始めた民医連の輪島診療所。山本悟所長は診察の際、体調とともに「水はもう来ましたか」など、患者の生活環境も忘れずに聞いてきた。
 「市の中心部から外れた地域はいまだに水道が復旧していない」と話す。行政の発表では、ほぼ断水が解消したことになっているが、あくまで水道の本管だけ。民家の敷地内の配管修理は、費用も業者への手配も被災者の負担だ。
 地震の死者は339人となる見通しで、このうち災害関連死は110人にのぼる(7月30日、審査会答申)。「今後は被災者のフレイル(心身の衰弱)を予防することが大切。友の会や社会福祉協議会など、さまざまな団体と協力し、災害関連死を防がなければ」と山本所長。
 輪島診療所看護主任の二木優子さんは、輪島港のそばに自宅がある。港は地震で海底が2mほど隆起、漁船が海に出ることができず年内は漁を再開できない。夫の家族は漁師だが、金沢市へ避難したまま戻っていない。「夫も仕事がなく、診療所で送迎の運転手をしています」と言う。
 水道の復旧に伴い診療所の患者も戻ってきたが、それでもまだ7割ほど。「仕事や住まいはどうなるのか。震災から半年が過ぎ、少し落ち着いてきただけに将来に不安を抱く人が増えている。きめ細かなケアが必要です」と話した。

一番の不安は住まい

 輪島診療所近くの友の会サロン「輪茶」。取材当日、道を挟んだ向かいの民家が解体作業中だった。友の会奥能登ブロック副責任者の佐渡麗子さんは「ようやく重機が入り解体作業が始まった。でも、遅すぎる」と指摘する。
 地元新聞の調査で、被災者にとって一番不安なことは「住まい」だった。自宅が全壊や半壊した場合、義援金や生活再建支援金、臨時特例給付金が出るが、新たに建て直すには費用が足りない。準半壊や一部損壊には公的な支援が少なく、公費解体もできない。
 住民の高齢化が進み、公営住宅やアパートも少ない能登地方。自宅を再建する余裕のない高齢者が多く、仮設住宅(入居期限は2年)を出た後の〝終の棲家〟を見つけることは大きな課題だ。
 さまざまな不安を抱える被災者をケアするとともに、要望を聞き取って行政に届けるうえで、民医連の地域訪問行動は大きな役割を果たしている。
 輪島市の地域訪問行動は、2月から4月まで全18クールが行われた。全国から91人(実人数)の職員が参加し、石川民医連職員や友の会員とともに約3000軒を訪問。「被災者の願いは『元の生活を取り戻したい』ということ。やむを得ず金沢市などに避難している人も、できれば地元に帰りたい。でも、自分たちの力だけでは帰れない」と佐渡さん。
 訪問で聞き取った被災者の声をまとめ、行政へ改善を要求する運動も始まった。輪島診療所と友の会、市内の各種団体が「輪島震災対策連絡会」を結成(代表・山本所長)、7月4日に輪島市に要望書を提出した。
 要望書は①倒壊家屋の被害認定の迅速化②仮設住宅の防音や暑さ対策③支援物資として備蓄米の供給④敷地内の水道修理の支援⑤生業支援⑥子どもの教育環境の整備⑦市内循環無料バスの整備など8項目22点に及ぶ。

震源の珠洲市で

 能登半島地震の震源、珠洲市でも被害の大きい宝立町。震災から半年をへても、いたるところに瓦礫の山が残る。友の会珠洲支部長の坂東正幸さん(83歳)と、津波に襲われた鵜飼漁港に近い仮設住宅「宝立町第1団地」を訪ねた。
 友の会員の助政昭子さん(78歳)は「狭いけれど贅沢は言えない。この歳で自宅を再建するのは無理です。住まいのことは仮設を出るまでに考えます」と話す。
 同じく仮設に一人で住む稲垣鍵一さん(86歳)は自宅が全壊、津波で友人も亡くした。「テレビを見ること以外にやることがない。ベッドに寝ながら一日中見ていたら、首や肩が痛くなった」と言う。
 「一人暮らしなので食事が一番困る。仮設住宅の風呂は狭いので、自衛隊の風呂を使うことも」と稲垣さん。近くの宝立小中学校の校庭では自衛隊の入浴支援が続いていた。
 奥能登では黒い屋根瓦(能登瓦)を使った屋敷をよく見かける。珠洲市若山町の宗口久信さん(83歳)は、築百年以上の立派な屋敷に一人で暮らす。
 妻のみよ子さんは震災当時、市内の介護老人保健施設にいた。1月11日にヘリコプターで名古屋市の病院へ。さらに愛知県内の老人ホームや病院を転々としているうちに状態が悪化、6月19日に77歳で亡くなった。災害関連死の申請も考えている宗口さん。「まるで、心の中の一部がなくなったよう」とつぶやく。
 珠洲市では、まだ多くの友の会員が戻ってきていない。坂東支部長は所在の分かる会員を訪ね、自分で育てた野菜や『いつでも元気』を届けている。
 「壊れた住居の解体が進み、更地になった後はどうするのか。災害公営住宅などを建設しないと、人の住む町ではなくなってしまう。国や自治体が本腰を入れて取り組んでほしい」と訴える。

つながり取り戻す

 コロナ禍で、ここ数年は職員が地域に出ることが困難だった。そこに起きた震災。全国支援の地域訪問行動はいったん終了したが、被災地では石川民医連職員や友の会員による訪問が続いている。
 「地域訪問は民医連の理念そのもの」と石川民医連の寺山公平事務局長。プレハブの仮設住宅をはじめ、アパートなどのみなし仮設住宅に住む被災者を見守り要望を聞き取るため、今後も定期的な訪問行動を予定している。
 また、医療費窓口負担の免除(9月30日まで)の延長や、被災した医療機関や介護施設への支援など、医療と介護にかかわる要望書を石川県へ提出する予定だ。寺山事務局長は「被災者のいのち、健康、暮らし、生業を守るため、友の会と協力して支援を続けたい」と今後を見据える。
 10月から共同組織拡大強化月間が始まる。友の会連合会の杉本会長は「コロナ禍で中断していた健康まつりをはじめ、被災地でも体操教室やサークル活動の再開、新たな班づくりが月間の課題。津幡町など支部のない自治体に、新たに支部をつくることも計画している。会員同士のつながりを取り戻す月間にしたい」と話した。

 東日本大震災では被災者の意向を無視した〝復興〟で大規模開発が進み、住民が戻って来ない地域もあった。住み慣れた我が家で土や海とつながり、家族や先祖とつながり生きてきた能登の人たち。そのつながりを元に戻すことが、本当の復興ではないか。

臨時特例給付金 正式名は「石川県地域福祉推進支援臨時特例給付金」。今回の震災で新たに設けられた能登6市町のみが対象で、高齢者や障害者のいる世帯などの条件がある

いつでも元気 2024.9 No.394