スラヴ放浪記 忘れ物番長 スラヴ珍道中
文・写真 丸山美和(ルポライター、クラクフ在住。ポーランド国立ヤギェロン大学講師)
ない…。全身が硬直する。肩掛けポシェットを、車で4時間も離れたガソリンスタンドのトイレに置いてきてしまった。中身は1000ズロチ(約4万円)、運転免許証、海外の銀行キャッシュカード1枚、日本のクレジットカード2枚、そしてパスポート。万事休す。
筆者は勤務先の大学が夏季休暇に入ると、クラクフ(ポーランド)にあるアパートを出てスラヴ諸国を旅する。1カ月の旅の途中、大切な物をそのへんにポイポイ置き、そのまま忘れてくる失態を繰り返した。
旅ではまず、ウクライナの支援に入った。原発事故で有名なチョルノービリ※近くに、3500頭の犬と200頭の猫を保護するシェルターがある。ロシアのウクライナ侵攻で、飼い主家族が避難し置き去りになったペットだ。訪問は3回目で、約500㎏のペットフードを届けてきた。
帰途にキーウ中心部に新しくできた博物館に行き、本を2冊買い求めた。その夜、仲間と泊まった家で本を見せながら歓談、翌朝とても良い気分でキーウを去った。ところが数時間後、家主から連絡があり、本を忘れていることを知った。
実はキーウには数日前にも仕事で来て、印刷会社のトイレにスマホを置き忘れていた。ロシア軍の空爆で停電中だったため、スマホを電灯代わりに使って、そのまま置いてきたのだ。見つけた従業員が、スマホの待ち受け画面に現れたSNS差出人の名前をたどり、私を探し当ててくれた。
クラクフの自宅にとんぼ返りし、仕事用の書類と衣類を詰め込むと、約300㎞北のワルシャワの空港へ。モルドバの首都キシナウへ飛ぶためだ。搭乗口近くのパブで生ビールを飲み、ほろ酔い気分でゲート近くのベンチに腰掛けた。すると視界に、さっきのパブのウエーターが走ってくるのが見える。片手に何かを掲げているので目を凝らすと、私のスマホであった。
モルドバ国内の公共交通は、「マルシュルトカ」と呼ばれる小さなバス。これに乗ってウクライナ国境近くのガガウズ自治区に向かう。ガガウズは親ロシア派という特異な社会的背景を持ち、近年モルドバから一方的に独立を宣言した。
猛暑のなかバスのエアコンは壊れ、窓から吹き込む風だけが頼り。しかし、その風も熱風。滝のような汗をかき2時間耐えた。ガガウズの首都コムラトに着くと「クヴァス(スラヴ地方独特の発酵飲料)とビールはいかが」と声をかけられ、屋台を見るとどちらも10レウ(約90円)。よく冷えた琥珀色の液体を喉に流し込み生き返った。
コムラトで一泊し、再びマルシュルトカに乗ってキシナウへ向かおうとした時、いつもの嫌な予感がした。カバンをまさぐるとスマホがない。
エンジンがかかり、ドアが閉まろうとする瞬間、大声で「降ります!」。最後部から満員の乗客をかき分けて下車、ホテルへ全力疾走した。汗だくでフロントに駆け込むと、スタッフが机の上を指さした。スマホがあった。部屋に置き忘れたのを保管してくれていたのだ。
キシナウからワルシャワに戻ると、夫が休暇を取って栃木県の自宅から遊びに来ていた。夫と合流し、レンタカーでポーランドとリトアニア各地を回った。
冒頭の忘れ物はその時に起きたもの。ポーランドの港湾都市グダニスクから、ベラルーシに近いビャウィストックへ行く途中のこと。欧州のガソリンスタンド(GS)は高速道路のサービスエリアのような機能を備え、トイレ休憩でよく立ち寄る。
GSで弁当を買い、スマホで決済をしていた。購入履歴からGSの所在地と連絡先がすぐに分かり電話。従業員は「ちょっと待って」とトイレへ走り、見つけてくれた。中身も確認し保管してくれるという。私たちはそのまま旅を続け、最後にGSへ引き取りに行った。忘れ物を見つけ、保管してくれた全ての人に心から感謝している。
※ チョルノービリ原発事故 1986年4月に起きた史上最悪の原発事故。半径30㎞以内が立ち入り禁止区域になり、約15万人の住民は自宅に戻れていない
いつでも元気 2024.9 No.394
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